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画面に隠された面白さのヒミツ。黒澤映画と『ペリフェラル』、視覚効果の違い
『ペリフェラル』第1シーズンが終了した。
期待して見始めたものの、自分の中では残念だなあという評価。
SFの世界観設定は曖昧だし、何が起こっているかイマイチ掴みきれない。
登場人物の行動動機もずっと謎のまま。
ただ、面白くなりそうな要素もいっぱい散りばめられているのだ。
魅力的な登場人物もいる。ぐいっと引き込まれるシーンもある。
なのに、面白そうな部分が面白く盛り上がらないのはなぜか。
説明会話だけのシーンが多すぎるからではないか。
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▼工夫を凝らした黒澤映画との比較
特に2100年の未来は、会話だけのシーンがてんこもり。
フリンとウィルフ、ヌーランド博士とレヴ、アリータとウィルフ。こんな感じで誰かと誰かが会話するだけ。
いくら重要なことを語られても、単調すぎて重要なのかどうかよくわからない。
ただ、映画やドラマでは会話や説明のシーンは避けて通れない。
特にSFの場合、未来世界のルールや現実にない技術を視聴者にどう理解させるのか、どう見せるかは重要なポイントだ。
これまで多くの映画で監督たちは、説明シーンの退屈さを打破すべく、さまざまな工夫を凝らしてきた。
ここに面白いYouTube動画がある。
登場人物が会話するだけのシーンで、黒澤明監督がどんな工夫をしたのかを解説したものだ。
目からうろこの面白さ。3分ほどでスピーディーに展開する。
英語解説なので、設定ボタンの「字幕」を「日本語」にして見てほしい。
最初に出てくるのは、『博士と彼女のセオリー』(2014)で複数の登場人物が会話をするシーン。これは非常に退屈なシーンだと語られている。
部屋の中では誰も動かず、カメラは話し出す俳優をアップで切り替えるだけ。『ペリフェラル』も同様だ。
その対比として解説しているのが、黒澤の『悪い奴ほどよく眠る』(1960)。
2人の男が会話をするシーンだが、誰もが「会話だけのシーン」とは思わない。
なぜなら、椅子に座って話すだけの退屈なシーンにしていないからだ。そこには俳優の動きと芝居があり、それらが意味を成して緊張感に繋がっている。画面の配置(レイアウト)やカメラワークがすべて計算され、映像ならではのシーンに作り上げられている。
もう1本、紹介したい動画がこちら。
登場人物の感情を視覚効果で表した例を、黒澤映画の画面の背景、カメラ、レイアウト(配置)から解説した動画だ。
これを見ると、黒澤がスピルバーグやジョージ・ルーカス、ポール・バーホーベンなど多くのハリウッド監督に影響を与えたことも納得できる。
こちらも設定ボタンの「字幕」を「日本語」にしてご覧あれ。
画面を単調で退屈にしないための動きとは何か。解説を聞きながらシーンを観ると目からうろこ。面白くて何度も再生した動画である。
また『アベンジャーズ』(2012)の状況説明シーンを比較映像で見せ、いかに退屈かが語られている。『ペリフェラル』の未来シーンでの会話は、ほぼ『アベンジャーズ』と同じ撮り方である。
(『アベンジャーズ』の解説は4:51から)
下の動画は『ペリフェラル』第6話の会話劇。未来世界でよく見るタイプのシーンだ。『アベンジャーズ』と同じく、話す俳優にカメラが切り替わるだけの展開。画面が単調な上に、セリフも比喩と暗喩が多くて飽きてくる。
男装の麗人のような警部補が、何かありそうな人物だとしか印象に残らない。
▲公式チャンネル Amazon Prime Videoより
「6話:レヴと取引したい警部補」
映画(ドラマ)はセリフだけでなく、視覚効果で感情に訴える工夫をして演出する必要がある。
そうでなければ「絵のついたラジオドラマ」にしかならない(トップの黒澤解説動画:ヒッチコック監督の言葉より)。
▼面白いのは、断然2032年社会の描き方
未来世界の単調な会話劇とは対照的に、2032年の世界では動きと緊張感溢れるシーンに目を見張った。
登場人物の中でも殺し屋ボブは、ボーリング場で殺しのスキルを披露するシーンや、娘との訳ありな電話のシーンなど、バックボーンが丁寧に描かれた。それだけにフリンたちと対峙する鬼気迫る暗殺者として実に魅力的(第5話)。
数分のシーンで、ボブが深い悲しみを抱く冷徹な殺し屋というバックボーンが積み上げられている。
▲公式チャンネル Amazon Prime Videoより
「殺し屋ボブに狙われるフリンたち」
そしてもうひとり、忘れてはならない保安官代理のトミー。トミーは主人公フリンよりも行動の動機が丹念に描かれている。
バートンやフリンたちは、トミーと距離を置いている。戦闘能力のないトミーを巻き添えにできないからだ。疎外感を覚えるトミーだが、フリンの周辺で起きる事件の単独捜査は続行する。
これはトミーの正義感であり、友情であり、信念の強さである。
トミーはフリン殺しに失敗したボブを車で連行するが、ここで2人の会話劇が始まる。
この会話劇はスリリング。後部座席からトミーを挑発するボブと、運転しながら黙ってミラー越しにボブを見るトミーの間に異様な緊張感が生まれている。
運転しながら落ち着きのない視線を泳がせるトミー。
ボブの言葉で、事件の突破口を見つけ出せないトミーと、ハンドルを握って動けないトミーの状況が重なっているのがわかる。
トミー演じるアレックス・ヘルナンデスの焦りに満ちた演技が秀逸だ(第5話)。
さまざまな思いがトミーを突き動かした。そしてとうとう腐食にまみれた保安官を射殺する(第7話)。
▲公式チャンネル Amazon Prime Videoより
「保安官を射殺するトミー」
このように、ボブとトミーは丁寧なシーンの積み重ねにより、動きと緊張感のあるドラマが展開した。人物造形としての深みも出た。彼らが行動する動機にも感情移入できる。
▼厚みを感じない、未来人たちの表現
ボブやトミーのように、未来人たちにも人間としての深みが描かれたか。
ジャックポットという未曾有の大災害をくぐり抜けた未来人たちだからこそ、苦難や憤りや狂気があることは想像に難い。それが未来人たちの行動動機、すなわち思想や哲学に繋がるはずだ。
だが、ボブやトミーのように描かれた未来人はいない。
誰にも厚みを持たせないまま、最終話まで持ち越されたのだ。
第8話では、アリータの抱く憎しみの根源が語られる。
革命を起こそうとしていることは8話で明かして構わない。だが、彼女が抱く義憤とその背景は、もっと早くに出すべきではなかったのか。
しかもこの会話劇は、淡々と映し出されただけである。重要なはずなのに印象に残る演出がされていない。
それよりウィルフにツッコむアリータのセリフの方が印象的だった。
「遅すぎるよウィルフ」
その通り。ウィルフはフリンの助けがなければアリータにたどり着けていない。
「何ポケットに手入れて突っ立ってんの」
その通り。意味があるのかないのか、アリータがツッコんでくれて笑ってしまった。
こんなツッコミ、物語の展開上はどうでもいいことなのだが。
▼字幕オリジナル版で観ることのススメ
最初は吹替えで観ていたが、途中からオリジナルの字幕版に切り替えた。「ウチら」みたいなドラマの雰囲気と合わない話し口調や、未来人女性キャラのくどい芝居が肌に合わなかったのだ。
そしたら余りに印象が違うので驚いた。俳優たちの抑えた話し方、間の取り方が表情と合致してめちゃくちゃ魅力的なのである。
日本語字幕はまとまりがよく、台本セリフよりもわかりやすい。
吹替え版の印象が良くないのは、声優さんには責任がない。
声を入れるアテレコで、声優さんの演技を決めて指示を出すのは音響監督の役目である。
どういう意図であのようなアテレコ台本を作り、あんなくどい芝居をさせたかはわからない。ぜひ字幕版をおすすめしたい。
シリーズ8話の総括として、画面の視覚効果という観点から考察してみた。
2032年の世界では手に汗握るシーンがあったのに、未来世界になると途端にトーンダウンするのが残念だった。
戦いは肉弾戦と剣。指先をクイクイ動かすだけで色んな事ができる魔法のようなテクノロジー。
まるで剣と魔法。異世界転生ものか、SFなのかと笑いながら、逆説的に楽しめたとも言えるのだが。
この記事を書くにあたり、改めて黒澤の画面づくりに見入ってしまった。
何も黒澤だけが特別なのではない。
最近、70年代のNHKドラマを観ているが、脚本も演出も秀逸である。
今のドラマでは観られなくなった演出など、改めて紹介したいと思う。