ジャージにボタンはない ~映画「ココ・アヴァン・シャネル」に見るボタン~
生まれてはじめてジャージというものを着ている。
齢四十五にしてジャージデビュー。
というわけで映画「ココ・アヴァン・シャネル」を観てみた。
これだけでは何が何だかさっぱりだろうから一応の説明を試みると、
「これがジャージかー。確かに何かジョギングしたくなるなあ(絶対にしない)」
「ジャージ生地といえば大学時代に読んだシャネルの生涯を描くマンガでシャネルが業者から強引にジャージを買い取る場面があったな」
「いやあれはジャージーだっけ?ニュージャージーのジャージー?ジャージとは別?」
「シャネルとスポーツ服ならポロのセーター(カレ服)にスカーフを追加するだけでエレガンスっていうエピソードもあったな」
「ファッションの『デザイン』は何となくわかるけど『スタイル』は分かりづらい、でもポロセーターの話こそ『スタイル』なんだろうな。うんうん」
「オドレィ・トトゥ主演のシャネルの映画があったな」
「観たい観たいと思いつつ観てないな」
「ジョギングしてる場合じゃないや。観るぞ」
大体こういう流れ。
二〇二二年五月現在ではU-NEXTとプライムビデオで見放題配信中。
なお、私が二十年ぐらい前に読んだマンガは高口里純の「私は薔薇」。全二巻。コミックはどうやら絶版だけどkindleなどで読めるらしい。
「私は薔薇」はココ・シャネルが死ぬまでを描いているのに対し、映画「ココ・アヴァン・シャネル」はタイトル通り「シャネル以前のココ(ガブリエル・シャネル時代)」。
実際に観てみたら半生にもちょっと足りないぐらい。三分の一あたりで終わる。
で、これを書き出す前に調べたところ、シャネルを描く映画なら昨年に新作が公開されていたのね。「ココ・シャネル 時代と闘った女」。知らなかった。これは気になる。サブスク配信が待たれる。
マンガを読んでいたこともあって、シャネルの生涯やエピソードはそこそこ知っていた。
そんな状態で、かつジャージで観た「ココ・アヴァン・シャネル」。
いやあ、面白かった。
オドレイ・トトゥはめちゃくちゃ可愛いし(シャネルなのに)、19世紀末のフランスのファッションはまぶしいし(ココが嫌っていたとしても)、男たちの末路が記憶にあるだけにハラハラできるし(残酷すぎて途中から「やめとけ、ココ」って言いたくなった)、見どころが多すぎる。二時間弱とは思えないくらい中身がぎっしりしている。
私はといえば、ココがバルザンの家に転がりこんで以降、ずっとココの服のボタン合わせに注目していた。
洋服の作法として、紳士服は和服で言うところの右前、婦人服は左前になっている。
で、ココは中盤からほぼ右前のシャツを着ている。
かなり早い段階で洋服におけるジェンダーの垣根を跳び越えたんだな、と感心する一方、でも別にココは男女平等とか女性の権利を謳っているわけではない。晩年はどちらかというと雇用主(社会的ポジションとしては男性側)として女性の働き手の要求に悩まされていたココ・シャネル。女の敵は女よ!
それはさておいても、ココは男性が美を独占しているとはまったく考えていなかったんだろうなとこの映画を観た限りでは充分に伺えるところが面白い。自由を独占していることには憤慨していただろうけど、そこで済まさず、いろいろ難しいことも言わず、シンプルに「じゃ働くわ」「じゃ銀行とは自分で交渉するわ」と行動に持っていくところがかっこいい。いいぞココ。でもアムールはほどほどにしておいた方が後の展開がつらくないぞココ。映画的には。
ある時はシャツは紳士もの(カレ服)、その上のジャケットはレディースと、常識的に考えると現代でもちょっとちぐはぐなのにココが着るとしっくり来る。
それ以前に、ココが一人でいるシーンはほとんど現代に見えるっていういのがすごい。本気でびっくりする。
海辺で漁師服に一目惚れして買ってきたのであろうボーダーのトップスとか(作中では「ストライプね」と言われているが縦じゃなくて横)、今日この日このとき、世界中で何億人の老若男女が着てる?
でもココのように「シック」に着てる人は極めて少ないだろう。そこは致し方ないとして、図は完全に現代。とても19世紀末、あるいは20世紀初頭とは思えない。
うーん。まさしくスタイル……。
そもそもこの時代の女性の服って前開きになっているデザインは少ないのでは?と映画を観ながらふと思った。
まだコルセット着用が常用されていて背中側にはフックがあるけど(自分で着る必要のある階級だと前フック)前はワンピースみたいになっているから、ボタンの合わせで紳士服か婦人服か推し量る必要はない。一目瞭然だし。それに紳士服って十七世紀以降ほとんど変化がないし。特に上体。
ボタンが前にある女性服=階級が低い、という事実を前に、あえてそれを逆手にとってアレンジしたココはやっぱりすごい。このやり方に挑むにはまず紳士服で男装めいたことをしなくちゃいけないのに楽しんでやっていそうなココはやっぱり並ではない。
西洋服飾史によれば男女でボタンの合わせに違いがあるのは「(女性が)男性に服を着せてやるとき便利だから」らしいんだけど、「それぐらい自分でやれ」とか言わないココは素晴らしい。そんな暇あったら帽子の位置を直せとでも言いそう。
だから半独立にこぎつけて仕事着をブラウスにしてもボタン位置は女性型なんだよね。そこでわざわざ男性風にしないところが最高にトレビアン。
って思ってたら本命彼氏とベッドに雪崩れこむ場面で男が「脱がせやすい服だな」なんて言うものだから「そういうことか!」って一気に目が覚めた。
既述した通り服飾史の「女性が着せて差し上げる時に便利だから」という理由は、つまり男性側からすると「脱がす時に便利」で、それはきっとココも分かりきっていて、でも別にそれがどうのこうのと騒ぐことはない。
ココ・シャネルが時代の寵児であることは事実だろうし様々な分野で革命的な女性だったけど、世の流れや倣いに無駄に逆らわない人でもあった。
「無駄の定義」とか理屈をこねてる時間があったら針に糸を通すか恋をするひとだったんだなあ。かっこいいなあ。
ところでココ・シャネルが残した名言の一つに、
「見た目に気を遣わず、香水もつけない女性は本当にみっともないものね」
というのがある。
ごめんなさいマドモワゼル・シャネル。今日の私はTシャツにジャージで家用のエスニックな帽子かぶって香水はつけていません。ノーメイクです。一年のうち三百五十日はこんな感じです。ほんっとごめんなさいマドモワゼル・シャネル。パルドン。
さて、この映画を観るきっかけになったジャージの件はどうなったかというと、ラッキーなことに映画で出てきました。
マンガ版とは違って本命彼氏のポロシャツを手に「これの素材は何?」と尋ねたら「ジャージーだよ」と返ってくる何気ないワンシーン。だけど振り返るとしっかりフラグが立っている切ない場面。
(というか自分の着ている服の素材をさらっと答えられる男って当時でも現代でも珍しいのでは……さすが、良い男だ……)
スカーフのエピソードと兼ねたのか、資料によるのか、そのあたりは分からないが、「ポロシャツの素材=ジャージー=ならジャージで正解か」というところに、一応は辿り着いた。
念のためにこれを書き始める前に調べた結果、それで良し。
「ジャージ」は和製英語で、もとはジャージー諸島の織物とのこと。
「ジャージ、着たことない」と言うと大抵は「体育の時間どうしてたの?」と驚かれるのだが、中学時代までは体育は体操服を着用してぼんやりしていました。
ジャージ禁止ではなかったしまわりはみんな(特に冬は)ジャージ姿だったけど、何となくジャージを手にする機会がなかった。寒がりではないし冬でも半袖ショーパン。
高校は体育はさぼって、大学は適当なTシャツとハーフパンツで。大学の体育って一年しかやらない上、剣道を選択したものだから半分は稽古着(簡易型)。
その後、体育指導もする職業に就いたのに何となくジャージを買うまではいかなかった。文字どおり、ご縁がなかったのです。
家では常にパーカー(コレクションするレベルでパーカー好き)と何か適当なボトム姿で生きてきたのが、なんとなくジャージとやらがほしくなり、ついに購入。
私がジャージに求めたポイントはサイドライン。それだけ。あとはお手ごろ価格。あとパープルかラベンダー色。
「サイドラインがなければ自分でつければいいじゃない」とココには言われそうだけど私にやらせるとペンで書きかねないのよココ……。
ともかくも条件に合ったものが見つかって今とてもご機嫌なのだけれど、これ、ジャージー素材ではない。ポリエステル。しかもセットアップなのにトップスはたまたまパーカーっていう。
でもサイドラインがあるからジャージ感はあるよ!
スタイルは素材がすべてというわけではない。
そこから何を派生させるか。どこへ辿り着くか。
とりあえずTシャツは「真珠の耳飾りの少女」のパロ柄。
どういうわけかジャージより値段は上。
メンズLサイズ。
靴下は三足セットの無地か何か適当なやつ。
メガネはいつもの初音ミクモデル。
スタイル……。
答えを出すには着こなすしかない。一ヶ月後の私をどうか見てほしい。スタイルはきっと、そこにある。
かわいいのだ。
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