今日は朝から祖母の家に行き、台所を片付ける手伝いをした。40年間使ってきた台所を改修するため、台所周辺の食器棚や食品棚を運ぶのを手伝ってほしいと、祖母と同居している叔母からお願いされたのである。

僕には2つ年下の弟がいる。今朝はその弟と二人で食器や食器棚、食品や食品棚を運びまくり、食器棚が置かれていた床のゴミを掃除し、40年間の汚れがこびり着いた壁を拭いたりした。

それで、あらかじめ叔母が仕分けした捨てるモノと捨てないモノを、捨てるモノについては屋外に運び、捨てないモノについては、改修後の新たな台所に戻すために、室内の一箇所に置いていった。

割と捨てない叔母、捨てない祖母

僕と弟は棚を運ぶため、棚の中に置いてあった食品や食器や調理器具やタッパを取り出していった。取り出すたびに「これ、捨てる?」と叔母に尋ね、捨てるものをゴミ袋に入れていった。

いくつもあった古い調理器具やタッパについて、僕と弟が「捨てるだろうな」と思ったものについて、叔母は割と捨てる判断をしなかった。

そして、捨てる判断をしたものをごみ袋に入れる際「それ捨てると?」と祖母が言ってきた。

割と捨てない叔母、捨てない祖母。今年で90歳になる祖母はともかく、割と流行に敏感で、価値観の新しい叔母が割と捨てないことが少し驚きだった。

「たまにコンマリの動画を観てるんやけど」と僕が言うと「うん、ときめくか、ときめかないか、のやつやろ」と叔母。ああ、やはり知っているんだ、と僕は思った。

知っているのにやらない、それには理由があるはずで、多くの場合、その理由は「確固たる想いを持っているから」である。あるいは、もっと違う理由かもしれない。

祖母の想いが乗った言葉とその背景にある価値観

古くてボロボロになった食品棚を捨てるため、弟と二人で持ち上げようとした時、祖母が「それも捨てるんかい?」と言った。「もう、ボロボロになってるから」と弟が言った。

すると祖母が「じいちゃんと二人で家を建てて、(家具が)何もない時から、頑張って、一つ一つ揃えていったんよ」と言った。

うーん、それは捨てにくいなあ、と僕は思った。

だけど、新しくなった台所を観た時、おそらくこの食品棚は不釣り合いだと感じるだろうし、買い揃えたとしても、IKEAに行けば5〜6千円くらいで揃うのに、と僕は言おうと思ったが、やめた。

おそらく「捨てたくない」という想いは、感情の問題もあるだろうが、価値観の問題もあるなあ、と思ったからだ。

物がたくさんあることは豊かなこと

祖母と祖父が家を建てたには約40年前。おそらく「物をたくさん持っていることは豊か」であると考えられていたのではないかと想像する。

つまり、「豊かさとは物をたくさん持っていること」であって、おそらくそれは、高度経済成長期の中で、一般的な日本人が培ってきた価値観である。

豊かさを測る価値観が所有物であったこと、それは、誰のせいでもなく、日本が急速に経済成長する過程で、自然と発生した価値観であったのではないか、と僕は推測する。

だから、所有物が減ることは、豊かさが損なわれることなのだと思った。

そんな祖母に僕は何かを伝えなければいけないなと思った。それは、僕は祖母のことが大好きだし、僕たち家族は、豊かな生活を送っていて、幸せであるということを理解してもらおうと思ったからだ。

もしかしたら、祖母は物を捨てることで、自分たちが不幸になると感じているかもしれない。

「ばあちゃん、ちょっと聞いて。今、僕らがこの家で集まってさ、ご飯食べたりすることって、とても幸せで豊かなことばい」と僕は祖母に伝えた。祖母は「うん、そうやね。みんな来てくれるき、嬉しい」と答えた。

人の価値観を変えることは、簡単なことではない。おそらく価値観とは、幸せや不幸を実感した経験の積み重ねによって形成されるものだと思う。

なので、僕らが祖母に出来るのは「今、自分は幸せである」ということの実感を積み重ねてもらうこと以外にないのだろうな、と思った。祖母は来年91歳。少しでも多くの時間、幸せを実感してもらいたい。

以上です。いつも読んで頂き、ありがとうございます。また読んでください。

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