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ある日受け取った一通の手紙についての話

毎年この時期、一本の梅の木を撮ります。この木です。

三重県にある鈴鹿の森庭園というところの巨大なしだれ梅の木。といっても、園内で一番大きな木というわけではなく、むしろ庭園の一番端っこの方にある、巨木ばかりの園内ではむしろ少し小ぶりの一本かもしれません。でも、その堂々と広げた枝ぶりに強い印象を受けました。今ではひっきりなしに人が訪れる場所になった鈴鹿の森庭園ですが、当時はそれほど人が多いわけではなく、僕はたっぷり三十分以上、この木の写真を撮りました。その数、約1000枚。そんなふうに一つの被写体に集中したのは、人生で初めてだったかもしれません。ちょっとした恋のようなものです、まあ、木ですけど。

2015年の3月20日撮影。今からもう4年も前になります。僕はちょうどその前年に東京カメラ部というところの10選に選んでいただいて、次の年の渋谷ヒカリエでの初展示にこの写真を持っていきました。ずいぶん気に入った一枚だし、未だにとても好きな写真です。これを展示に持っていくのは、当時の僕には自然なことでした。

その写真とともに、てんやわんやの17日間の展示が終わります。身も心も粉々になるほどの疲労感とともに関西に帰りました。

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それから数週間。展示後の僕は、少し方向性を見失うことになります。写真の世界に本格的に入ってせいぜい二年だったのに、突然分不相応の展示に招かれ、その中で自分のやってきたことが如何に根っこのないものだったのかを痛感したのです。周りは写真の猛者たちばかり。自分は本当に、ただ、浮き草のようにここにたどり着いただけだったのだと。

僕は自分の場違いな感じ、実力不足の感じ、何をすれば良いのかわからない立ち位置を持て余します。写真のことなんて何一つわからないただの素人なのに、まるでカメラの名人のように自分のことを褒めてくれる。シャッターを押すのが恐ろしくなりました。切っても切っても背面液晶に出てくる画は、みんなが言うような「すごい写真」には見えない。撮っては消し撮っては消しというネガティブスパイラル。

そんな時、一通のメールを受け取りました。

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展示を見てくれたある方が、娘さんに冒頭の展示写真を見せたところ、とても気に入ってくれたという内容のメールでした。娘さんは当時中学生になったばかり。メールの中には、その子がある病気にかかっていることが触れられていました。聞いたこともない病名です。気になって、Googleで調べて愕然としました。中学生が背負うにはとても重たい病でした。

なんと返事していいものか、考えあぐねるうちに数日が過ぎました。できる限り丁寧に返事を書いたことを覚えています。そして文面の最後に、余計な申し出かもしれませんがと前置きした上で、あの梅の写真を娘さんに送らせて頂けたらということをPSで付けてお返事しました。

その後の何度かのやり取りのうちで、無事梅の写真は先方にお渡しすることが出来ました。それから半年ほどたった頃です。一通の手紙を受け取りました。メールではなく、手紙。まだ幼さの残る、でもとてもしっかりした手書きの文字で書かれた、まるで未来から来た最後の小さな希望を伝えるようなメッセージ。

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そこには毎日僕の梅の写真を見ながら朝起き、昼を過ごし、夜寝ていること。見ていると元気が出てくること。まるで翼を広げた大きな綺麗な鳥が飛んでいるように見えること。病気が少し落ち着いていること。治療をがんばってやっていくこと。そんなことが、とてもとても丁寧で綺麗な文字で書かれていました。彼女の病気を考えれば、便箋三枚に丁寧に文章を綴ることは、相当な負担だったに違いありません。読み終わった時、手紙を持つ手が震えました。

この手紙は、僕にとっての「写真家」として歩き始める原点になります。根無し草のように思えていた自分の写真の路程に、一つの方向性が与えられた日。そして、ここからスタートすれば、いつでもまたやり直せるような、小さな篝火が灯されている場所が明らかになった日。

そう、僕がこの手紙を読み終えて決めたのは、僕の撮る写真は見てくれるその人の目にすべてを委ねようということでした。

僕はこの写真に最初、"When the angel cries"というタイトルを付けました。まるでこの木は、地上に縛り付けられながらも空に飛び立とうと必死にもがいて泣いているかのように見えたからです。レタッチの過程で空にわずかに残っていた青色を消したのは、空の青の持つ開放的な雰囲気をなくすためでした。美しさとともに、僕はそこに自分自身が縛り付けられていることの暗喩を見出したかったのかもしれません。

でも、あの子は違った。この写真に自分の希望を託してくれたんです。彼女はこの写真に「広げた翼」を見出した。もし彼女のその気持を言葉にするならば、"When the bird flies"とでもすべきものです。それは、彼女がこの写真と結んだ一つの物語であって、それは僕の写真がきっかけであるとはいえ、もはや彼女自身のものなんです。

それ以後、この写真から僕はタイトルを外しました。なんとなく、ふさわしくないような気がしたんです。あるいは、彼女が見た物語を、僕も共有したくなったのかもしれません。カエサルのものはカエサルに、神のものは神に。彼女の物語は、彼女自身の心の中に。

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あれから5年。あの子が最近どうしているのか、今はわかりません。でも、無沙汰は無事の便りといいます。彼女が病を乗り越えて、力強く生きていることを僕は信じたいように思うんです。その祈りを込めて、この季節、翼を広げる梅の木を撮り続けることになります。

この話を、僕は今まで割と大事にしてきました。いうべき時があまり見つけられないし、誰に向かって話せばいいのか、少しわからないところがあったからです。

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昨晩、仕事をしているうちに日付が変わりました。3月11日。時刻は夜中の2時を過ぎたところでした。今この瞬間も、不安な夜を迎えている人がたくさんいるだろうなと思った時、ふと、24年前の1月17日のことを思い出しました。あの日僕の友人は、地震で父親を亡くしています。ずいぶん後になって友人が僕に言ったのは、「もっと父親からいろいろ聞いておけばよかった」でした。僕も自分の父親を数年前に亡くした時、同じことを思いました。もっと話を聞いておけばよかった。いつだって悔いは、後からやってくる。取り返しがつかなくなった時にようやく気が付きます。世界には語られなかった物語、見えていなかった奇跡に満ちあふれていたのだと。

物語は語られなければ、消え去る運命にあります。僕の好きな小説の一つに、『奇跡も語る者がいなければ』というタイトルの物語があります。その一節は、ことあるごとに読み返します。引用しますね。

「娘よ、と彼は言い、そしてこの言葉を口にするときには、彼のありったけの愛が声の調子にこめられていて、娘よ、ものはいつもそのふたつの目で見るように、ものはいつもそのふたつの耳で聴くようにしなければいけない、と彼は言う。この世界はとても大きくて、気をつけていないと気づかずに終わってしまうものが、たくさん、たくさんある、と彼は言う。奇跡のように素晴らしいことはいつでもあって、みんなの目の前にいつでもあって、でも人間の目には、太陽を隠す雲みたいなものがかかっていて、その素晴らしいものを素晴らしいものとして見なければ、人間の生活はそのぶん色が薄くなって、貧しいものになってしまう、と彼は言う。

奇跡も語る者がいなければ、どうしてそれを奇跡と呼ぶことができるだろう、と彼は言う。」
ジョン・マグレガー『奇跡も語る者がいなければ』

世界を描き出すこと。そのことは、恐らく奇跡と呼ばれる物事の本質であると思うのです。描かれなかった奇跡を、奇跡と呼ぶことは出来ない。絵を描いたり、音楽を作ったり、友達と遊びにいったり、写真を撮ったり、ゲームをしたり、2日目のカレーに幸福を感じたり、そうしたすべての「言葉にしなかったものごと」が、おそらくはこの世界に一度しか現れなかった奇跡と呼ぶべき瞬間の総体なんです。その一瞬一瞬をもう伝えられなくなったすべての人々に対して、生きている人間がなにかできることがあるとするならば、それは何らかの行為を通して、自分の持つ奇跡を形にすることではないのか。そんなことを、昨晩思いました。そして、「あの子の話を書いておきたい」と思ったんです。僕がある日突然死んでも、強く生きるあの子に、僕がどんな大きな力をあの手紙からもらったのか、その奇跡を伝えられる可能性を残すために。

すべての語られなかった物語たちを偲んで。

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