![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/142626636/rectangle_large_type_2_eefd2ac24b22f6b612b67b81b7e1cf26.jpeg?width=1200)
「授業を見て学ぶ」とはどういうことか
「授業を見て学ぶ」ということのイメージが、多くの現職院生と私とでは異なるのかも、ということにふと思い至る。
多くの現職院生の場合、模範的な授業から自分が見習うべき点を見つける、というイメージ。
私の場合、授業について考えるための手がかりを得る、というイメージ。
模範的な授業から見習うべき点を見つけるイメージの場合、模範的な授業に出会うことなんてそうそうないので(そもそも「模範的な授業」とはなんぞや、という問題はさておき)、たいてい、「ここがダメ」「これができてない」が意識にのぼってくることになる。
院で行う授業見学でも、現職院生がそうした「◯◯がダメ」「◯◯はどうなってるんだ」的なダメ出しをし合うのは、「あるある」だ(まあ、よくもあしくも大人なので、大学教員の前ではそういうのは見せないが)。
現職院生がダメ出しをしたがるのは、経験を重ねたぶん「こうあるべき」像が染み付いてるとか、それによって自分をエラく見せるとか他にもいろいろな要因があると思うけれど、根本にはこの「授業を見て学ぶ」ことのイメージの問題があるのだろう。
「見習うべき点を見つける」から反転しての、「見習うべき点がない」「ダメな授業」。
一方、私が授業を見る場合、こうした見方はしていない。
「ダメな点」だけでなく「よい点」も見つけるというのとも、ちょっと違う。
そうではなく、最初に挙げたように、授業について考えるための手がかりを得る、というイメージ。
もちろん、いろいろな授業を見ていると、「あちゃー」という授業、「何がどうしてこうなった」な授業にもしばしば出会うわけだが、それはそれで、考える刺激になる。
例えば、教師としては子どもに自分で考えさせるために作業を課しているっぽいけれども、あれっ、これ、子どもたちはただ資料集を開いてプリントに引き写すだけになっちゃってるな(現代風にいうと、自分の端末で検索して文章や画像を自分のスライドにコピペするだけになっちゃってるな)という場合、私は、教師はそれを願っているわけではないはずなのになぜこうなるのだろう、この場面に対して自分は直感的に「子どもにもっと頭を使ってほしい」と感じるが、では「頭を使う」というのはいったいどういうことなのだろうなど、いろいろ問いが湧いてくる。そして、こうした問いについて、具体的な素材をもとに考えるのが楽しい。
だいたい、何かしらその授業に課題がある場合でも、それがもっぱらその教師個人の問題であるということは、まずあり得ない。むしろ、より一般的な問題がそこに現れているだけだ。それが、「これまでの日本の道徳の授業が抱えてきた問題」であるにせよ、「新任教師が陥りがちな問題」であるにせよ。
だから、私にとっては、こうしたより一般的な問題について考えることにつながる具体例を、その授業は示してくれている、ということになる。なんとありがたいことよ。
もちろん、私がこうした見方をできるのは、現職の先生と違って、自分が小中高で授業をするわけではないぶん、距離をとりやすい、というのはあるだろう。突き放した見方ができる。
一方、現職の先生の場合、自分自身が評価的な目線にさらされているから、自分も評価的な目線で他の授業を見てしまう。
が、それってやはりもったいないなあと思う。
見習うべき模範的な授業なんてそうあるわけではないし、そもそも、完璧な授業というものは存在せずどの授業も何かしらのよさと課題も併せ持っている。
「見習うべき点を見つける」だと、授業を見て学べる頻度は著しく減ってしまうことになるし、だいたい、「◯◯はよい」「◯◯はダメ」式の見方は、自分の枠組みを固定して見てしまっているわけだから、枠組みそのものの変容が生じなくなってしまう。
まあ、多くの現職院生は、こんなふうにダメ出ししたがる段階をいったんは経験して、いずれそこから脱却していくけれどね。多分。
そういえば、昔、佐藤学さんが何かの機会に、「自分はどんな授業からでも学ぶことができる」と言っていたな。
たしかまだ院生だった当時の私は、「えー、ほんまかいな」と思った記憶があるけれど、今の私なら同じように、「どんな授業からでも学ぶことができる」と言い切ることができる。