「教育データ利活用ロードマップ」がもつ学習観・成長観の問題 〜「自分らしく学べる」とは〜
デジタル庁、総務省、文科省、経産省が「教育データ利活用ロードマップ」を1月7日付で公表した。
https://cio.go.jp/sites/default/files/uploads/documents/digital/20220107_news_education_01.pdf
このロードマップをめぐっては、すでにネット上でも、さまざまな批判・疑問の声が出ている。
その主なポイントは、個人情報といえる個人の学習上の履歴(何を選んだか、何ができるようになったかetc.)が国家によって継続的に収集・活用されることへの懸念だ。
この懸念はもっともだ。
「学習者がPDSを活用して生涯に渡り自らのデータを蓄積・活用できるように」なんて、私も「勘弁してくれよ」と思う。自分の学校生活を振り返ると、消してもらいたい「黒歴史」だってある。何でも記録に残されるとなると、「アホなこと」ができなくなる(なんて息苦しい!)。
「子供の学校での心理状況がわかる」「保護者向けにアラートが出る」というのも、いじめやらメンタル面での問題の早期発見という意図は理解できるが、私が子どもなら、ごめん被りたい。学校で嫌な思いをしたのとか、いちいち親に知られたくない。
…というように、この点だけでも問題はおおいにあると考えられるが、ここで私が指摘しておきたいのは、別の点だ。
それは、そもそも人間の学習や成長をどう見るのかという、このロードマップの背後にある学習観・成長観の問題だ。ここをきちんと問題にしておかないと、上述の点だけだと、「個人情報保護もきちんと配慮しますよ」で片付けられてしまう恐れがある。
このロードマップのキーコンセプトは、「誰もが、いつでもどこからでも、誰とでも、自分らしく学べる社会」だ。
この表現に対して、私は強い違和感を覚える。
ロードマップが想定しているのは、こういうものだ。
デジタルを活用した学びなら、端末と通信回線があれば、「いつでもどこからでも、誰とでも」、そして自分のペースで学べる。そこでの作業履歴はログとして残っていくので、提示する設問や学習パッケージを自動的にそれに応じた形にする(「最適化」する)ことができる。したがって、「自分らしく学べる」ことになる。
そうだろうか?
例えば、ショッピングの場合を考えてみよう。
ネットショッピングは、現時点でもすでに「いつでもどこでも、誰とでも[※どの店からでも]」買えるようになっているし、よく知られているように、どの商品が表示されるかは本人の購買履歴・表示履歴によって左右されたり「おすすめ」が出てきたりもするから、「データ」活用による「最適化」も行われるようになっている。
さてこれを、「自分らしくショッピングできる」と表現されたとしたら、どうだろうか?(「いつでもどこでも、どの店からでも、自分らしくショッピングできる社会」!) 「いや、便利は便利なんだけど、それを『自分らしく』と呼ばれるとちょっと抵抗が…」と多くの人が感じるのではないだろうか。
なぜ抵抗感が生じるのか。
それはきっと、標準化されたシステムにおいて個人が情報の集合体として捉えられ、それに応じた選択肢が提示されて行動することと、「自分らしく」という実存にかかわる行為とは、本来相容れないものだからだろう。
ショッピングの場合ですらそうなのだ。ましてや、人の学びや育ちに関して、デジタル・テクノロジーおよび「データ」を活用して「いつでもどこからでも、誰とでも」学べることを、「自分らしく学べる」と呼ぶのには、相当な無理がある。ショッピング以上に、学びや育ちは、人間の実存に密接に結びついた営みなのだ。
武田信子氏は、この事態を、「子どもの商品化」と呼び、「国家によるブロイラーの養鶏管理」となぞらえている。
言い得て妙だと思う。
そして、ここで注意しなければならないのは、「効率的に育てるためにコントロールしますよ」と明示的にこれが行われるのではなく、「自分らしく学べる」と一見魅力的な看板が掲げられている点だ。成育状態、飼料摂取の履歴の「データ」に基づいて給餌が「最適化」された環境下でブロイラーが育つことを、「自分らしく」育つと宣伝しているようなものだ。
学習観・成長観の問題についてもう一段掘り下げておこう。
ロードマップではおそらく、与えられた課題をこなして、できることが増えるようになっていくことを、学習や成長と捉えているのだろう。だからこそ、デジタルで自動的に収集される「データ」を活用して、それをより効率的に行えるようにと考えている。
けれども、これは、いわゆる認知革命以前の行動主義の学習観であり、学問的にはもう半世紀以上前に乗り越えてこられたもの。現在では、周囲の環境をどのように捉えどのように相互作用するかを主体が組み替えていくことが学習や成長であると考えられるようになってきている(「構成主義の学習観」)。学ぶとは、知識や技能のパッケージを獲得していく行為ではない。
また、小難しい話を持ち出すまでもなく、個人の実感としても、思うようにいかなかったり失敗したりするなかで自分の考え方・捉え方が変化していく(「一皮むける」)ことこそ、自分の飛躍のきっかけになったと捉える人は多いのではないだろうか(このことを、中学校教諭の渡辺光輝氏は、「人の学びにとっては『できたこと』より『できなかったこと』『わからなかったこと』が多くの意味や価値をもつ」と正当にも述べている)。
学習や成長というのは、そもそも、必ずしも計画的に実行できるものではない。もちろん、(教育そのものが意図的・計画的な働きかけである以上)計画を無視してよいわけではないし大事なことでもあるが、それでも、必ず不確実性・偶発性が残る。そして、そのようにして「たまたま生じたこと」をいかに捉え、いかに自らの糧にしていくかということが、学習や成長において大きな意味をもつ。それはおそらく、多くの人が、「人間らしい」「その人らしい」と感じる部分でもある。
ロードマップは、こうした側面を捨て去る学習観・成長観に立ってしまっている。恐ろしいのは、ロードマップが進展するにつれ、各自が予定調和的にタスクをこなしていくことこそを「学ぶ」(あるいは「自分らしく学ぶ」!)ことだと人々が誤認するようになっていくことだ。
ロードマップで述べられている内容すべてを否定するつもりはない。たしかに、学校の現状として、紙媒体ゆえ作成にやたらと手間がかかったり共有や引き継ぎに支障が出たりする事態は存在しているし、その改善は必要だ(もっとも、デジタルにすれば仕事を減らして多忙感も解消できるという見通しはあまりにも素朴で安直だとも感じる。ビジネスの世界でも、コミュニケーション手段が電話から電子メール、さらにはグループウェアになったからといって、仕事に追われずにすむようになったかというと、決してそうではないだろう。また、業務効率化・利便性向上が謳われていたはずの「マイナンバー」だって、これを利用するためにいちいち紙のコピーをとって提出しなければならなかったり、謎の手間が増えているではないか)。ロードマップに基づく環境整備によって、無駄に手間が取られる仕事を軽減できるのならば、それは望ましいことだ。
けれども、そうした「業務効率化」と同じノリで、学習や成長の「効率化」を考えるのは、大きな間違いだ。なぜなら、人間の学習や成長というのは、各種パラメータを効率的に上昇させていくような単純な営みではないのだから。
ICTを活用した「個別最適な学び」の推進者がもつ学習観の問題については、以前こちらの記事にも書いた。
また、「データ」が先行することによって、教師の専門性が削り取られていく、教師が目の前の子どもを見なくなるようになる恐れについてはこちらの記事に書いた。
これらも参考にしてほしい。
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