授業の協議会で何から話し始めるか
微妙に得体の知れない相手と道端で出くわしたとき。
相手が拳を構えればこちらも拳を構える(か逃げる)だろうし、
相手が武器を出してくればこちらも武器になりそうなものを手にする(か逃げる)だろうし、
相手がおずおずと両手を挙げて争いの意思がないことを示してきたら、こちらもそれにならうだろう。
(あくまでも比喩です。こんな治安の悪い日常を送っているわけではありません。)
おそらく、授業の後の協議会も同じだ。
誰かが、「これこれにはこういうやり方があって」とか「これの主題はこれこれだから」とか、「知っていること」開陳モードで切り出せば、他の人も、そうした語り口になる。
誰かが、「今日の授業のねらいは◯◯でしたが、私が見ていた子どもたちは◯◯していたので、手立ては有効だったのではないかと思います」みたいな目標達成評価モードで切り出せば、他の人も、同じような話型で話す。
誰かが、「生徒が◯◯していましたが、指導案によると今日の授業は◯◯ということだったので、そこの点授業者はどう考えていたのか、聞いてみたいと思いました」みたいな理路整然モードで入れば、他の人も、多かれ少なかれ理路整然と発言しようとする。
だからこそ、私が大事だと考えるのは、最初、自分が感じたことを率直かつ簡潔に出すところから始めることだ。
「生徒の髪が色とりどりでビックリした」とか、
「教科書の落書きがめちゃくちゃレベルが高くて、さすが美術クラス!と思った」とか、
「授業前に文句言ってた子らが、授業始まると案外真面目に課題に取り組んでいて面白かった」とか。
こうしたものが最初に出ると、他の人からも、「そうそう、私も思ってた!」的に、連鎖的にそれぞれの率直な「感じたこと」が引き出される。
そしてそれが、その後の本音ベースでの対話につながる。
なぜそうした本音ベースの対話が大事なのかは、リフレクション(省察)がもつ性質そのものにかかわる話になるのだが、今回は省略。
が、ここで興味深いというか気をつけなければならないのは、こうした「感じたこと」の発話というのは、一般に思われている以上に出にくいということ。
一つには、そもそも協議会の枠組み的に、そうしたものを出すことが奨励されていないためという場合もある。授業を見終わったすぐ後での話し合いなのに、「みなさん、今回の研究授業は校内研究の一環として行われているものですので、研究構想に挙げられた項目を意識して、その観点からしゃべってください」みたいに指示される場合もある。
またもう一つには、各自の側が、そんなふうに自分が「感じたこと」を出すことに不安や恐れを抱いてしまうからというのもある。「こんなこと言ったらバカと思われるんじゃないか」「自分が感じたことなんて取るに足らないことなんじゃないか」みたいなの。
けれども、実際には、こうした率直な「感じたこと」を出して、周りからも「あぁ」と受け止められて、そうした「共感の瞬間」が生じて初めて、授業で起きた出来事から共同でリフレクションを深めていく、意味のある話し合いが可能になるのだ。
残念ながら、近年は、「PDCA」やら「エビデンス」やらの発想が授業の協議会にまで持ち込まれて、むしろ、「そんな自分の感覚みたいなことしゃべっちゃダメだ」に傾いているように思われる。
そのため、協議会が始まるまでの休み時間や終わってからの電車の中での雑談が一番楽しくて有意義な振り返りになった、みたいなことが起こる。
いやいや、一番楽しくて有意義な振り返りをこそ協議会のなかで行おうよ、と思う。
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