音読や音読指導をめぐって感じるギャップ 〜石川&ちょん『対話で学びを深める 国語ファシリテーション』〜
石川晋、ちょんせいこ『対話で学びを深める 国語ファシリテーション』フォーラム・A、2022年
晋さんもせいこさんも、これまで何度も仕事でご一緒してきた方々。とはいえ、二人のタイプは違う。
一筋縄ではいかないというか、頼んだようにはやってくれないけれどこちらの求めには必ず応えてくれる晋さん。
テクニック化の限界を見定めつつも、テクニックの習得および共有が可能にする地平を信じ、そのためのトレーニングを凄まじい高水準で展開してきたせいこさん。
気まぐれと構造という相反するところにいそうな二人がタグを組んでつくった国語の授業の手引き。両者の意外に近い部分と溶け合わなさとの両方が垣間見える、刺激的な本だ。
もっとも、本を頂いてからのんびり読んでいるうちに、あすこまさんに素晴らしいレビューを書かれてしまった。
これを超えるものを書ける気がしないので、本の全体的な紹介はあきらめて、自分が本書から好き勝手に考えたことだけ書くことにする。
それは、音読と音読指導のことだ。
上のあすこまさんの記事にもあるように、本書では、音読および音読指導が(おそらくこうした国語の授業の手引き書としては例外的なほどに)力を入れて扱われている。多様な指導法の説明はもちろん、せいこさんによる、晋さんの(木村信子の詩「未知へ」を教材とした)音読指導の活写も素晴らしい。
音読は、私も、現在の国語教育(あるいはより広く言語教育全般)においてないがしろにされてきたと感じ、問題意識を持ってきた部分(私の国語教育の学会での初めての研究発表は、実は「音読指導」をタイトルに含むものだ)。
音読指導がないがしろにされやすいのは、一つには、教師の側に、指導のノウハウがないからだ。
繰り返し読ませるだけになって、飽きる。ボソボソとしか読めない(読まない)子どもへのアプローチをもたない。あるいは、一応、「読み間違い」なく音読できるようになったあと、何をすればよいか分からない。
ただ、おそらくこの背景には、教師自身が、音読の魅力やその深さを知らない、という事情がある。
私の場合、学生の頃に竹内敏晴さんの「からだとことばのレッスン」に出会って、音読が、単に「どううまく読むか」というものではなく、声を出し身体の感覚を働かせることでいかに多くの気づきを読み手自身に(もちろん聞き手にも)もたらすものであるのかを体験してきた(竹内さんは別に「音読」や「朗読」という言葉を使わないけれど)。
だから、私にとって、音読というのは、声を通してその作品と出会っていく行為だ。
声に出して、場合によっては数名で役割を割り振ったり空間をつくって体を動かしたりして、作品の言葉およびそれによって生み出される世界に出会っていく。
それがたまらなく楽しくて、今まで、学生らと共に「音読練習会」と称して、物語や詩を声に出して読み合う場をもってきた。修了生が勤務する学校での自主的な勉強会に先日呼ばれて行った「初雪のふる日」(安房直子・作)を使った講座だって、(「演劇的手法を学ぶ場」とは銘打っていたけれど)その一つだ。
ここでポイントになるのは、声に出す(+身体を動かす)ことによって、作品の魅力や面白さを発見できるのが楽しいのだということ。目で見て読んだ気になっていたのが声に出してみることで全然読めていなかったと突きつけられることの心地よさ。
それは、声を媒介とした作品探究と言ってよい。
声に出して読み、それを聞き合い、を繰り返すことで、作品についての何かしらが見えてくる。
それが自分にとって楽しいし勉強にもなるから、私は、正規の仕事とは別枠で、そうした活動を行ってきている。
おそらく、私が学校の先生方に対して時に感じるギャップは、先生方が、こんなふうに音読を通して作品そのものの魅力に自身が出会うという部分をすっ飛ばして、音読の指導法やら活動のアイデアやらを求めてしまう、という点にあるのかなと思う。先生方が自分の感覚を働かせていないわけではなくて、「楽しい」活動を求めてはいるのだけれど、そこでの楽しさはしばしば活動自体のゲーム的楽しさ(順番を切り替えていくのを失敗なく行うとか)になっていて、作品に出会う(出会いなおす)部分での楽しさではない。
ただ、ここでさらにややこしいのは、実際に教室で音読指導(や演劇的手法を用いた活動)を行っていくときには、指導法やらゲーム的楽しさ重視の活動のアイデアやらも、たしかに必要になるということだ。
声と身体を媒介としてテクストに出会っていくことの面白さを子どもが経験していけるようにするには、まず、声に出すことに対するガードを取り除いたり、挑戦できる幅を広げておいたりする必要があるわけで、その点で、指導法や活動アイデアももちろん必要になる。私自身、それらを持ち合わせていない段階で、竹内レッスンで経験した楽しさの感覚だけで看護学校の教育学の授業において群読を試み、白けたムードのなかで一部の学生だけがこちらに配慮して声を出してくれるという、このうえなくつらい状況を経験したこともある。
さて、こうした点でいくと、本書では、ゲーム的楽しさを含めた、数々の音読指導の活動アイデアが掲載されている。一方で、晋さんがいかに作品そのものを大事にしているか、作品に書かれた言葉を大事にしているかも、本書にはにじみ出ている。
これが読者にはどう読まれるのか。作品の魅力に出会うという部分まで含めて受け止められるのか。興味が惹かれる。
(なお、研究者の視点で言うと、音読指導でやっかいなのは、その研究のしにくさだ。研究は基本的に文字言語ベースで行われるわけで、書いたもので変化を見てとることができる作文指導と比べても、音読指導の研究のしにくさは歴然。写真を使って視覚的に示すことができる演劇的手法のほうがまだマシなくらい。それなら音声分析でスペクトルの形に可視化して…と思われるかもしれないが、それでもよほどピンポイントで照準を合わせていないと、研究にするのは難しい。)
ところで、本書において読み聞かせ(毎日ちょっとずつ)の実践事例で取り上げられていた、森絵都『宇宙のみなしご』、未読だったので読んでみた。
いい話だった。
もっとも、私はこれを読み聞かせに使うことはできないな。最後のほう、きっと、読みながら自分が泣いちゃうな。
【参考】声と身体を使った作品の世界の探究の例。研究会で中継したときの録画映像。