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揺らぐからこそ見えるもの 〜小西公大『ヘタレ人類学者、沙漠をゆく』

めっちゃおもろいやないか、この本。
帯の「圧倒的な面白さ!!」のコピーに偽りなし。

小西公大『ヘタレ人類学者、沙漠をゆく~僕はゆらいで、少しだけ自由になった。』大和書房、2024年

同僚の人類学者・小西 公大さんの新刊だ。
冒頭にて以下の問題意識が示される。

(僕も含めて)人類学者たちがホームタウンに戻り、難解な専門用語を用いて論文(民族誌=エスノグラフィー)やエッセイを書く時には、ヘタレ感がすっかりなくなって、かっこよさ満載の論理的な論考へと昇華されている。
だから、みんな勘違いする。人類学者は「他者理解」「異文化理解」のエキスパートだと。知の挑戦者なんだと。

p.18

これに対して、公大さんは、

しかし、世間が思っているほど、人類学者は立派な存在とは言えないかもしれない

p.18

と述べて、本書では、現地滞在中の「失敗」や衝突、ネガティブな感情などを、包み隠さず語っていく。「ヘタレ」の部分をオープンにする。

ただし、それがただの、「舞台裏を明かします」的なものにとどまっていない。
むしろそこにこそ公大さんは、人類学の、そして、人間という存在の本質を見出している。

だから、現地で、焚き火に足を向けたり、感謝の言葉を口にしたりして、周りの人から怒られたり、逆に公大さんが、返ってこない懐中電灯に苛立ったりといったエピソードがいっぱい綴られるけれども、それがこぼれ話のような位置付けにはならずに、そこから、生活に根付く神話や互酬性の捉え方、さらには、怒ることを通した分かりあい方などへと、記述が発展する。

いや、こうしたちょっとしたところから刺激的な考察をする人類学者の書物はこれまでにもあった。それこそ、帯にも一文を寄せておられる松村圭一郎氏のとか(ちなみに松村氏の本もめちゃくちゃ面白いですよ)。

けれども、そうした書物では基本的に最初から「人類学者」としての記述になっているのに対し、本書では、公大さんがまだ10代の大学生で初めてインドに行ったとき、つまり、文字通りまだ「人類学者」ではなかったときから話が始まる。
だから、インドに行っちゃう大学生の旅先エピソードや失敗談を読んでいたと思ったら、そこからいつの間にやら、人類学の世界に引き込まれているし、同時に、一人の人間の揺らぎと「成長」(と言ってよいかは別として)にも立ち会うことになっているのだ。「等身大の人類学」とでも呼ぼうか。
(同世代で、当時、インドに行く大学生みたいな時代的雰囲気があって、まさに同級生にもそうした友人がいた身としても、すごく親近感があった。HISに駆け込むくだりとか。)

「「あるかもしれない」と「ないかもしれない」の間」のパート、

「科学」寄りの「合理的」な人間なのか、「迷信」と「虚構」が支配する「非合理的」な世界の人間なのか

p.186

が突きつけられる箇所、特に響いた。
超自然的な現象にどうしてもカラクリを見出そうとしてしまう私たちの構え。
羊に女神が降りる話とか。さそりの毒を呪術で解毒する話とか。
昔読んだシャーマンと出会う話にもそうした場面があったけれど(本の名前が思い出せない…)、おそらく、我々にとって、「ありがとう」が無礼にあたる社会がある、ということを理解すること以上に、こうしたものを受け入れるのには抵抗がある。
身に染み付いた科学的思考・合理的思考からの抜けられなさ。思えば最近のだと『ラディカル・オーラル・ヒストリー』などもそれをめぐる問題だった。

もう一つ。「身体知」に関して。

電気にあふれた生活をするなかで、僕らはいつの間にか、スイッチを押す力加減を体得し、全てのスイッチに対してソフトタッチで対応することを「身体知」として獲得してきた。

p.269

電化製品のスイッチを押すという、「身体知」とはかけ離れたように見える行為に「身体知」を見出すこと。火おこしをするとかマッチを擦るとかなら分かりやすく見えるけれども、たしかにこれだって一種の「身体知」だ。そしてこのことに、インドの沙漠地帯に滞在し、彼らの懐中電灯への接し方に苛立つなかで初めて気づくこと。
すぐそばにあるにもかかわらず見落としているものの多さに気付かされる。

自分が揺らぎ、相手も揺らぐ。時には痛みさえ伴って。けれども、それによってしか人と人は理解に向かえないのではないか。

「ヘタレ人類学者」からのこうしたメッセージは、私のフィールド、教育のほうを考えるうえでも示唆的だ。
授業研究だってきっとそうだ。学校や教室に入るこちら側が揺らぐことにオープンな構えでいて、はじめて理解できるものがある。
だとするならば私は「ヘタレ教育学者」でいたいなあと思う。

そうそう、最後に一つ公大さんに苦言を。
本書、あまりに面白くて、特に、

上記の方法を2〜3日続けていたある日の朝、家族たちは「コーダイが狂った」という話で持ちきりになっていた。

p.272

のくだりでは食卓でブフフッと吹き出してしまって、妻に、「めちゃくちゃ気持ち悪いな」と文句を言われてしまった。私が、「女神への祈祷の準備」を始められてしまうところでしたよ。
(「上記の方法」が何かを知りたい人は、本を読んでくださいね!)

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