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「ハンチバック」の感想文です

自分は、言語化にしがむ癖がある。なにかを発言したい時、あるいは、何かしらの感情が心に湧いた時、「無理矢理にでも言葉にしよう」として、発言内容がまとまっていない状態でも手を挙げてしまう。

人前でついつい喋り過ぎてしまうのです。

そして、人前で喋ることによって、人前で喋る適格な方法が見つかるような気がしている。人前で喋れば喋るほどスキルが上がるし、その事によって、さらに経験を積む機会が増えると思っている。

むかし、落語家の立川談志は「オレは本当にオレ好みの落語をするね」と言っていたけれど、「自分は本当に自分好みの喋り方をするね、しかも、やればやる程レベルが上がっていくね」と思っている。「すげー自信だな」と思われるかもしれないけど、本当にそうなんだ。

おそらく自分は、自分がやる事が、面白い/面白くないとジャッジしていて、自分の判断をとても信用しているのです。しかも、その面白さって、他人と共有可能なものだと思っている。
それは自分の強さなので。自分にはパワーがある!

もし仮に自分が「あなたは社会的には弱者ですよ」と認定されたとて、「いや、わりとたくましい人間ですよ」と主張するかもしれない。しらんけど。

と、前置きが長くなってしまったものの、これから本題に入るので安心して読んでください。
この文章は市川沙央「ハンチバック」の感想として編みはじめたものなので、これから「ハンチバック」の感想書きますんで。タイパとか気にする人は、ここから読みはじめるのがいいと思うけど、ここまで読んじゃったとしたら、しょうがないと思って諦めてください。
というわけで、「ハンチバック」の感想を書きはじめます。

正直に告白しまふ。
自分、市川沙央「ハンチバック」が芥川を受賞したとき、「また、当事者文学か」と、すこし残念な気持ちになったという事を。しかし、「ハンチバック」の評判が自分のところまでまわってきたので、気になって読みはじめたら、全くちがった作品だったという事を。

「この作品には何か不穏な感触があるな」と思いました。
その不穏な感触は「当事者性」抜きには語れないものなのかもしれないが、時代の空気を反映した不穏さなのかもしれないな、と。

この作品の面白さ…(シンプルな意味での面白さについて)は、重度障害者である釈迦という女性と、弱者男性を自認する介助者・田中、ふたりの関係性にあると思われます。2人の会話がキモかわいくて、そのおかしみが私は好きです。

一方で、プロットや構成、作品内に散りばめられた幾つのもモチーフと、文体がどこか歪であり、その歪さからハンチバック/せむしという暗喩を読みとることが出来なくもない…、みたいに評することが出来るだろうけど、自分の読解力では、そこまで読みとることは出来ませんでした。

自分は、この作品には、ただ何となく不穏な感触があって、それが文学らしさとなってあらわれている気がするなー、と思いました。自分には、そのぐらいの読みしか出来ませんでした。

こっからはちょっと「当事者性について」を少し掘り下げてみようと思います。

この作品は当事者性抜きでは語れない。(むろん、現代のあらゆる作品には作者などの名前が表記されているため、広い意味で当事者性を抜きにして考えるのは、とてもむずかしいと思われますが)

「ハンチバック」は「障害者当事者が書いた私小説」という面で楽しめるが(楽しめるというワードが適切なのかどうかは、ここではおいといて)、別にそれを抜きしても楽しめるような気がしていて。要するに「ハンチバック」は文学作品的な意味で面白い文学作品であるという事。

あるいは、文学作品的な面白さ/楽しさとは、権力/パワーである、と置き換えてもいいかもしれない。これだけのものを書かれてしまったら、「当事者性を打ち出した作品が苦手」とも言えないですし、ましてや「文学と政治は距離をとるべきだ」とも言えない。

ただ、「ハンチバック」に刻まれた弱者/マイノリティの表象は、あらゆる政治的な態度の読者たちを困惑させるようにも思います。

「ハンチバック」はフィクションなので、あらゆる重度障害者が金持ちであるわけがありません。中絶したいという欲望を持っているわけもないということも、当たり前にわかります。
と、同時に、彼/女たちが、そういったビッグマネーだったり、欲望を持っている可能性を否定する事も出来ない。その正当性を問うてはならないという事。

時代の話にもどります。

いまは「障害者/マイノリティの代理表象が不可能である」という時代にあって、私たちは彼/女らを、腫れ物にさわるように、あるいはパターナリズムに照らしあわせて接することが(消極的に)「正しい」とされています。

それは個々の欲望や、愚痴…、もっと言えば人間そのものが持つ「穢れ」のようなものを奪い取ってしまう事にもなりかねないとも思います。

人間の汚さ、しょーもなさを書くことが文学の役目であるとするならば、障害者はその領域から疎外され、社会的には「プレーンな障害者」という檻の中に閉じ込められてしまう。それは、障害者を障害者という種族として扱うという事を意味します。(それがあんまり良くないことだと思うのは、人間と人間の関係の本当は「個別性」の中にある、という荒木優太さんの思想に影響を受けています)

唯一、そのヴェールを破ることが可能なのは障害者当事者だけなのではないか。障害者個人が己の欲望、穢れを諧謔的にひらいていく事で、読者を障害者の個別性と向き合わせることが出来る。「ハンチバック」はそれを成し得た作品であると言うことができます。そして、「ハンチバック」はマイノリティ運動が次の段階に進むために必要な作品だとも思いました。

最後に敬意を表したいと思います。

何に敬意を表するかというと、障害者が文学作品を書くという事は、健常者の文学者ワナビーが辿る道のりとは、全くちがうルートを使ってきたはずだという事です。

例えば段差。健常者は見なくても越えられる段差だが、障害者は困難をともなう段差がいくつもあり(例えば読書のような)、それを乗り越えて(あるいは迂回して)「ハンチバック」という文学作品を完成させた、という事に対して、深い敬意を表するとともに、今後の展開に期待したい。

そして、自分もそうありたいと思います。方法論的には勿論、目的論的にも個々の人間のひとりとしてひらかれていきたいという思いがあります。自分の場合、自分なりの面白さをもっと深めていって、なんか、かっこよくありたいなー、とか。うわー、なんかしょうもない話におさまってしまった。途中なんか深そうな話もしてたのに。

ちなみに最初は「ハンチバック」と「ランチパック」を絡めて、剛力彩芽がどうとか書こうかな、と思ったんですけど、それは違うなと思った。

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