忘れえぬ人々
ふたたび、ブログ(新・十勝日誌/2020年1月27日)からの再録です(多少改稿しましたが)。新しい稿を書き起こしている余裕がないというのは、あいかわらずですが、この note への投稿を続けているうちに、自分の半生は「文学」との格闘だったのかなと思うようになってきたということもあります。それを追いかけたり、そこから逃げたり、あるいは追いかけられたり……。「文学」はもうオワコンかもしれない。でも、死んではいない。逆に少数かもしれないけれども、文学(カッコのないところに注意)との接点を求めている人もいるかもしれない。そんな人のために、文学的なコンテンツをもう少し続けてみることにします。(ヘッダーの写真は2020年3月に市内の緑ヶ丘公園で撮影したものです)
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ところで最近、どういうわけだか国木田独歩のことが気になってしかたがないのである。「牛肉と馬鈴薯」とか「空知川の岸辺」とか、北海道にゆかりのある作品がとくに気になるというわけでもない。
初めて独歩の作品に出会ったのは、高校時代の教科書に収められていた「忘れえぬ人々」という短編であったと記憶しているが、半世紀も前の教科書が家に残っているわけもないので、証拠はない。
その後、一度くらいは読み返したようなことがあるような気がするけれど、それもおぼろげな記憶でしかない。
で、去年の暮れにふと思い立って、本棚の奥に眠っている文学全集(河出のグリーン版)から一葉と独歩がペアになっている巻を取り出してみた。「忘れえぬ人々」冒頭の一行を目にして驚いた。
まさか、この短編が溝口の宿場の場面から始まっているとは思いもよらなかった。その昔、溝口が宿場だったということも知らなかった。次女にこの話をしたら、国木田独歩の碑が駅の近くにたっているという。
この二子の渡しは、今では多摩川をはさんで二子玉川と二子新地という田園都市線の駅名になっていて、隣の高津駅の次が溝口(溝の口)である。次女の家がさらに少し先の宮前平付近にあって、東京に出たときにはこの田園都市線とそれに連なる半蔵門線をよく利用する。とくに溝口は宮前平方面に行くバスが出ているので、この駅で娘たちと待ち合わせをして買い物をしたりするから、親しみがある。
地名にはその土地の霊——地縛霊とは言わないけれど——のようなものが宿っている、というのはけっして大袈裟な話ではない。北海道の場合なら、「和人」(シャモ)がやってきてアイヌの土地を征服したわけだから、地名も日本語の名前に変えることくらい簡単にできたようにも思えるが、実際にはそんなことはできないのである。ここ帯広はオペレペレケプ(もしくはオベリベリ)というアイヌ語が語源で、「川尻が幾重にも裂けているもの」という意味だときいた。
それに加えて、作者にとっての思い入れや、「忘れえぬ」思い出があったりする場合には、人であるよりも土地が主人公ではないかと思わせる作品も多々ある。その代表例はプルーストの『失われた時を求めて』だろう。病弱で旅することも叶わない主人公にとって夢想のなかのバルベック(ノルマンディのカブールがモデルだと言われている)という地名はこのように描写される。
私は週末には写真を撮りに、十勝管内のあちこちを——ときには釧路や日高のほうまで足を伸ばすこともある——経巡っているけれど、もちろんそれは美しい景色に出会いたいという願いを抱いているわけだが、この「美しい」は、じつはとても謎めいている。たんに視覚的に均整の取れた対象を指しているわけではないからだ。たぶんそこに根付いている、潜んでいる、あるいは眠っている力、磁場のようなものが、光や風の加減や、雨や雪、雲の様相、湿度の加減で、たとえば先週と今週ではまったく違う様相で現れてくるときに、私たちは虚をつかれたように「美しい」と思うのではないか。そんなふうに考えているのだが、こんな話をしていると切りがないので、国木田独歩の「忘れえぬ人々」に戻ろう。亀屋という旅籠のある溝口の宿場はこのように描かれている。
まるで江戸時代の——時代劇で見るような——風景だが、こんなことに驚く必要はないのかもしれない。というのも、この短編が書かれたのは一八九八年(明治三十一年)であって、きっとまだ至る所に江戸の景色と風習と生活が残っていたにちがいないから。注意すべきことはむしろ、ほとんどプルースト張りの緻密な筆致で寒々しい宿場の光景が描かれていることだだろう(ちなみに『失われた時を求めて』が刊行されたのは一九一三年から一九二七年にかけてである)。
ところでこの「忘れえぬ人々」という作品は、ちょっとトリッキーな構成になっている。というのは、この溝口の宿場で「無名の文学者」大津弁二郎が「無名の画家」の秋山松之助を相手に、えんえんと「忘れ得ぬ人々」——ちなみにこの短編のタイトルは「忘れえぬ人々」だが、独歩にどういう意図があったのかはわからないが、本文では「得ぬ」と表記されている——について語るという構成なのだが、日本の近代文学史上最初の「小説を書く小説」ではないかというのが、個人的な密かな印象なのである(プルーストの『失われた時を求めて』は、じつは小説を書く小説だということをお忘れなく)。
大津は秋山の前に「忘れ得ぬ人々」と題された半紙十枚ほどの書きかけの原稿を差し出す。「忘れ得ぬ人々は必ずしも忘れて叶うまじき人にあらず」というのが、このスケッチ風の草稿の書き出しである。このスケッチに登場する人物は、大津が旅の途中で出会った名も知らぬ人ばかりなのである。正確に言えば、出会ったわけでもなく、袖触れ合ってさえいない。風景のなかの人影のようなものと言ってもいいかもしれない。たとえば、阿蘇山の火口から降りてくるときの描写、
あるいは四国の三津ヶ浜での琵琶僧との出会いの描写、
この短編の描写の密度は並大抵のものではなく、どこを引用していいのかわからないほどであるけれども、共通しているのは、風景を視覚的に描写するだけでなく、そこに音や風や、人々の生活やら、楽器の音色やら、すべてを封じ込めようとしている印象を読者に与えるという点だ。
それはまことに象徴主義と呼ばれる詩法を思い起こさせる。
大津は秋山に「忘れ得ぬ人々」とは何かについて説明する。
でも、国木田独歩のこの作品を読みすすめていくうちに、われわれは「忘れ得ぬ人々」の定義が逆転してしまうことを感じる。つまり、本当に忘れてはいけない人(=忘れて叶うまじき人)というのは親でも子でも友人でもなく、おそらくは旅先でふと見かけた「無名の人々」のことではなないかと。
独歩のこの短編に描かれた風景とそこに住う人々はみな、もうこの現代日本から消えてしまったものばかりだ。独歩が書き残したから、その風景は永遠に残ったとは言わない。むしろ、作家や画家が描こうと描くまいと、おそらくは人々の胸の奥——無意識という言葉は使わないでおこう——にしまわれて、ふと何かの瞬間に表層に浮かび上がってくるものではないか、と思う。
芸術や文学は、そういった遠い記憶の触媒をはたすもの、はたさなければならない、それをわれわれは必要としている。独歩の作品はそのことを痛切に語りかけてくる。
ところで、さっきこの作品の構成がトリッキーだと言ったのは、もちろんそういうことではない——すこしは関係するかもしれないけれど。この短編の最後はこんなふうに締めくくられている。大津が溝口で秋山と出会ってから、二年が経過している。
そこで読者は自然と最初のページに戻る。すると「亀屋の主人」の風貌はこう描かれている。
戦後七十年余りが経過して、われわれはもうこの手の緻密な人物描写をしなくなった。風景についても同じである。会話ばかりがえんえんと続く軽い小説に慣れている。
独歩を読んでいると、文は呪詛だということを思い起こさせる。文字も言葉も、そもそもが呪詛なのだから。
死者とのコミュニケーションということを最近は考えるのである。
独歩とプルーストは死者の国で、宿屋の主人の口ぶりに残る土地の記憶について語り合っているのではあるまいか。