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三人の購読者

 「冬の心」というタイトルのもとに有料マガジンの枠を設定して、ほぼ一カ月。さっそく三人の読者の方々が購読者となってくれました。ありがたいことです。よちよち歩きのマガジンにとって、この三人の購読者の存在は、建物に例えるならば礎石のようなものです。
 地味な一歩ですが、幸先のいい一歩だと感じています。娘と有料化の段取りを進めているとき、とにかく立ち上げてみよう、で、あまりにも反応が鈍いようなら潔く撤退しようと話していたので、とりあえず撤退することはなさそうです。
 「冬の心」は少なくとも十回以上の連載になるだろうと思います。本や映像が古本・中古でしか手に入らないので、どちらも持っていない人でも読めるようにするのがけっこうむずかしく、圧縮しすぎるとあらすじさえわからなくなってしまう。ま、やれるだけやってみましょう。
 三つの礎石を土台に、壮大な建築物を建てるというような野心はありません。しかし、翻訳から少し飛躍し、有料という条件を課したうえで、どういうことがやれるか。そういう挑戦です。
 今、挑戦と書きました。
 もう若くはないことは自覚しています。肉体的にも、精神的にも。
 同時代を共有した旧友たちの多くが、会社勤めをまっとうし、退職金をもらい、悠々自適とまでは言わなくとも、明日食べるものを心配する必要はない、そういう年齢に達しています。
 でも、私の場合は違います。窮地に陥っているわけではないけれど、緊張感を解いてしまうと、これから先どうなってしまうかわからないという不安、危機感があります。
 生き生きとした老人は、よい趣味を持っていると思います。それに深い自己満足を感じている人は言葉を必要としないのではないかとも思います。
 無言で魚影を追いかけ、川面と語らうように釣りに興じている人、黙々と庭いじりをしている人、静かに文字を追っている人、まるで音楽と同化しているかのようにレコードに聞き惚れている人、そういう人が私は好きです。
 自分自身、写真撮影に没頭しているときが一番好きです。自分を忘れられるから。
 で、この note のことに戻ります。
 なぜ儲けにもならない有料化を試みているのか。黙って翻訳という仕事に、趣味のカメラいじりに没頭していればいいじゃないか。
 その理由はあきらかです。この note という場所を、趣味の場所にしたくないからです——趣味の写真をおまけのようにヘッドに掲げてはいますが。
 数年前まで、自宅で翻訳塾のようなものを開いていたことがあります。でも、限界を感じて中断しました。たぶん、同じような形では再開しないだろうと思います。
 どうせやるのなら、プロの翻訳者になりたいと思っている人を対象にした塾にしたいのですが、地方ではそういう試みはむずかしい。zoom のような通信手段を使うことも考えてみましたが、どうも現実味を帯びてこない。
 施設に入った母は着実に老いを深めています。
 自分の生まれ育った町に帰って十五年になります。
 十八歳でこの家を出ました。
 四十年東京で暮らしました。
 その東京がまた、晩年を迎えた私を呼んでいる(具体的には、日仏学院で今年十一月の初めに開催される予定の翻訳者要請プログラムの講師として招かれています)。
 この note はそっちのほうにつながっているような気がします。

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