坂本龍一
これは詩人・吉田一穂の詩集『海の聖母——一九二六』の巻頭を飾る四行だけの詩。
と言っても、今ではこの詩人を知らない人のほうが多いかもしれない。手元にある新潮社版「日本詩人全集26」の解説(窪田般彌)によれば、吉田一穂は明治三十一年(一八九六)に北海道の上磯郡木古内町に生まれた。家は津軽海峡に面した漁場の網元だった。「生まれるならばセートのようなところで生まれたい」と地中海に面した自分の生まれ故郷を自画自賛したポール・ヴァレリーに負けじと、一穂もまた「ふるさとに関するかぎり、断じてその誇りを譲るものではない」と揚言したという。
でも、詩人の作品と生涯に深入りするのはやめておこう。そこにこの投稿の目的はないから。
なぜ、こんな古めかしい——あるいは超ハイカラな?——詩を最初に持ってきたかというと、今年の三月に坂本龍一がこの世を去り、まるで自分の大切な何かが奪われたような、一つの時代が終わったような気がして、ただ茫然と手持ちのレコードやCDやストリーミングに耳を傾けているうちに、なぜかこの明治生まれの詩人の代表作の一つが記憶の底から浮かび上がってきたのである。
自分でも驚いて、いったい吉田一穂の詩と坂本龍一の音楽のどことどこが、何と何が結びついたのだろうと考え込まざるをえなかった。
「ディスタンス」という言葉? それとも「ピアニッシモ」? ディスタンスだったら武満徹のほうがお似合いだろう。最弱音というのもピンとこない。
それとも「母」か?
そこでネットでいろいろ調べてみた。するとウィキペディアの「坂本龍一」の項目にこんな記載があるのに気がついた。「母・敬子は実業家・下村彌一の娘にあたり、帽子デザイナーで銀座の宝石商に勤務」。これ以上のことは書かれていない。それ以上調べてみようとも思わない。
悲しみのかなた、母への/さぐり打つ夜半のピアニッシモ。
坂本龍一は、言うまでもなく、じつに多彩な音楽活動を展開した。そっちの方面は明るくないので、細かいことは省く。ただこの春先に彼の訃報を耳にしてから、初期の曲から晩年に至るまで、とにかくひたすら彼の音楽を聴いているうちに、どんなジャンルに傾いた楽曲であっても、そこには一貫した音というか、調べというか、そういったものが聞こえてくるように感じられてきた。
静かな祈りのような、かぎりなく沈黙に近い音。石のような、でも頑なというのではなく、物質化して輝きだけ放っているような石。カタルーニャの音楽家モンポウの言う "Musica Callada, la Soledad Sonora"(音楽が沈黙を守り、語らないでいると、孤独そのものが音楽に変わる——髙橋悠治)のような。それは最晩年にNHKのお気に入りのスタジオ内で演奏された「日記調」のピアノ曲に結晶しているようにも思える。そこに紛れ込んだ「最期」の吐息とともに。
彼と私はほとんど同世代である。坂本龍一は一九五二年の一月生まれ、私は五三年の十月生まれ。学年的には二つ違う。
彼は何かのテレビ番組で、若いとき自分は何にでもなれると思っていたと語っていたのを思い出す。天才ならではの発言とは思わなかった。「戦後」生まれ特有の「自由感」がそこにあると思った。私たちの世代は「国家」の敗北、解体、自由の空気を吸って育った。
そもそも私の生まれた北海道自体が、良くも悪くも伝統的縛りのない自由な空気に満ちた土地柄だったが、それでも親元を離れて東京に出たときの解放感は、その後の自分の人生を決定づけたと思っている。
坂本龍一が、東京芸大時代に武満徹を批判するビラを配って「政治活動」をしたというエピソードは有名だが、そういう無茶苦茶な「政治活動」は当時どの大学、どの高校にも溢れかえっていた。それは戦後の「自由」が閉ざされていく流れに絶望的に抵抗するムーブメントだったと思っている。ちなみに私が東大「安田講堂」の攻防をテレビで見たのは中学三年のときであり、三島由紀夫の「生首」が掲載された「毎日グラフ」を町の本屋で立ち読みしたのが高校二年のときである。そして受験で上京したときに、宿舎のテレビで「浅間山荘事件」を見た。入学するとそこらじゅうで学生たちはデモ行進をし、キャンパスでは鉄パイプを持った新左翼のセクト同士が「内ゲバ」を展開し、死者も出た。
それは「戦後」と呼ばれた時代の断末魔だった、と今は思う。
それがわれわれの青春時代だった。みんな自棄っぱちだった。
坂本龍一の話に戻ろう。というよりも、彼のお父さんの話に。
彼の父は坂本一亀、倒産した河出書房を河出書房新社として復興させた戦後を代表する編集者として、つとに有名な人だ。こういう人を父親に持った息子はたいへんだったと思う。
坂本龍一は細野晴臣との対談——YMOが解散してからしばらく経って、二人とも「大人」になってからの対談、YouTubeで見た——で、細野から「あんたのお父さん、すごく偉い編集者だったんでしょ。おれにいちいち突っかかってきたのは、要するにファザコンだったんじゃない、おれが少し年上だからさ」と冷やかされると、坂本は「うん、ものすごくおっかなかったよ。子供の頃は口もきけなかった」と正直に認めている。この発言にも共感した。教員だった私の父もひどく「おっかなかった」から。
でも、ファザコンのたいへんさに共感したのではない。私の自棄っぱちの青春時代の読書遍歴の核心部は、じつは編集者坂本一亀が世に送り出した本に負っているからである。
ウィキペディアの記述によれば、坂本一亀が倒産前の河出書房に入社するのは一九四七年、その年に米川正夫訳の『ドストエフスキー全集』の担当者になっている。この全集は今も私の本棚の中にある。大学に入学した年に買い求めたものだ。
それだけではない。三島由紀夫『仮面の告白』(一九四九)、吉本隆明『共同幻想論』(一九六八)、埴谷雄高作品集(一九七一)、中上健二『十九歳の地図』(一九七四)、秋山駿『知れざる炎——評伝中原中也』(一九七七)、刊行年に開きはあるものの、これらはすべて河出書房、ないしは新社から出版されたものだ。このすべてが坂本一亀の手で世に送り出されたものではないにしても、いずれも青春ど真ん中のこの未熟な頭をどやしつけてくれた本ばかりなのだ。
河出書房新社は当時の文学や思想の最先端にあった。その中心に編集者坂本一亀はいた。その息子も激しい時代の波に翻弄されて音楽的青春を送った。でも、彼の父は音楽とは無縁の人だったようだ——これも細野との対談で龍一自身が語っている。彼を音楽へと導いたのは母の敬子である。
自分でデザインした帽子をかぶり、三歳の龍一の手を引いてピアノ教室へと歩く母の姿。
あゝ麗しいディスタンス。
坂本龍一の音楽は、その底でいつも、あゝお母さん、ごめんなさい、と言っているように私には聞こえる。
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