岡潔「日本の教育への提言」―情と日本人
これまで、日本的なるもの=日本的感性について投稿してきた。
「日本人のものの感じ方、見方」について、岡潔の講演録や対談のエッセンスは、現代における「日本的ウェルビーイング」について考えるにあたり、大切な示唆を与えてくれる。
岡潔は京都大学数学科を卒業後、物理の湯川秀樹、数学の岡潔と言われ、日本の誇る世界的科学者の双璧の一人として60歳で文化勲章を受章。
その後数学を捨て去り、世に心と時代の危機を訴え、人類の危機に警鐘乱打する講演を行った。
西洋の浅い心(自我)の世界観の限界を見極め、東洋の深い心を探るが、ついには日本独特の「情緒」の再発見に至り、「情緒の哲学」を樹立した。
岡潔の講演録の文章化と整理が少数の弟子によって行われている。
今回は、その弟子の一人から私に送られてきた「日本の教育への提言」と題する岡潔の貴重な珠玉の講演録のエッセンスを抜粋して紹介したい。
<「情と日本人」(1972年3月12日、奈良自宅にて)>
●幸福・道徳と情の関係
日本人は「情」の人である。そうであるということが非常に大事だのに、少しもそれを自覚していない。大阪へ行って淀川を見る。これはひどい、これではいけないと直ぐ公害を思うんだけど、川が見えなくなるとけろりと忘れてしまう。そんな風な分かり方ではさっぱりことは進展しない。
戦後、幸福ということをよくいう。
幸福とは何か。
知情意のうち「情」が幸福なんです。知が幸福だの、意が幸福だの、意味をなさない。そんな幸福、どうでも良い。自分の情が幸福と思う、それが幸福なんでしょう。
人には人の情というものがあるから信頼できる。こんなことをしてはいけないんだがなあと情の思うことを、知や意のすすめによってする。そうするといつまでも心がとがめる。これが情です。漱石の「こころ」もこれを書いている。
そうすると、道徳とは人本然の情に従うことである。背くのが不道徳です。また情というものがなかったら、道徳とは何かという前に、道徳というものが存在しえないでしょう。人に情があるが故に道徳というものが存在し得るのです。
儒教は形式は分かっても、内容は分からない。儒教の内容は「仁」です。
仁とは何かというと、情の中から不純なもの削り去って、良いところだけを残して、これを「真情」ということにすると、真情が仁です。
だから真情に従って行為するように努めるのが儒教の修行になる。
知情意を比べてみると、情は自分の体だけど、知や意は着物のような、そういう感じがするでしょう。知的や意的に分かったって、本当に膚(はだ)で分かってないという、そういう気がするでしょう。
人の本体は情であるから、教育は何よりも情をつくるべきである。教育は全く間違えていると、そういう意見は新聞には一つもなかった。
情が自分であるという自覚があったら、それを踏み台にして知や意を働かすことができるんだけど、その自覚がなかったら、何が何だか分からないのですね。
●「子を思う母の情」のエピソード
情の中で大脳前頭葉で分かる部分は「感情」ですね。これは極く浅い情です。もっと深い情を西洋ではどういっているかというと、ソール(魂)と言っている。これが情です。深い情とはどんな風なものか。
一例をあげよう。
お母さんと子供が住んでいた。子供が13歳になり、禅の修行をしたいと言い出した。いよいよ別れるという時になって、お母さんはこういった。お前の修行がうまくいって、人がちやほやしている間は、お前は私のことを忘れても良い。しかし、お前の修行がうまくいかなくなって、人に後ろ指を指されるようになったら、私を思い出して、私の所へ帰ってきておくれ。
それから30年ほどたった。子供は修行がうまくいって、偉い禅師になった。郷里から使いが来て、お母さんは年をとって寝たきりである。お母さんは何も言わないが、お母さんの心を推し量ってお知らせに来た、と言った。
それで禅師は家に帰って、寝ているお母さんの枕辺に座った。そうするとお母さんは子供の顔を見てこう言った。
「この30年、私はお前に一度も便りをしなかったが、しかし、お前のことを思わなかった日は1日もなかったのだよ。」
私はこの話を聞いて、涙が流れて止まらなかった。これが情の本体です。この情を魂と言っている。この情が幸福なのであって、道徳は情あるが故にあるのである。明白なことです。
●「理」が分かるのではなく、「趣」がわかる
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