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世界で初めのクリスマスは…


マリアが馬小屋でイエス・キリストを出産した夜、その町はずれの野原では羊飼いたちが、羊の番をしていた。羊飼いのもとに天使が訪れて辺り一面を照らし出した。おじ惑い恐れる羊飼いたちに天使は優しく告げる。「人類の救い主が生まれた」と。

その時代のその地域では"羊飼い"は、汚れた職業とみなされていた。貧しく、教育も受けられず、読み書きすらもできないことを人々から見下されていた。"羊飼い"は"ひとりの人間"としてのあつかいをされることはなく、価値なき者とみなされていた。

世界で初めのクリスマスは、決して豪華な宴でもなく、聖人君子が祝いに駆けつけた夜でもなかった。いや、それとは正反対に、人々から見下されていた羊飼いにイエス・キリストの誕生の知らせが天使によって知らされるというものであったのだ。

イエス・キリストが誕生した夜に、天使が舞い降りて、誰よりも先に羊飼いたちに救いの知らせを告げた事実を、私は皆さんに伝えたい。

天使は、宗教学者や偉い立派な人たちのもとには現れなかったのだ。皆から馬鹿にされたり、さげすまれたりしていた羊飼いたち。彼らに"喜びと幸せの宣言"をしたのだ。暮らしの中で困難と苦しみを感じ、また、劣等感にさいなまされていた人たちに"喜びと幸せ"の知らせを告げたのだった。

私たちは、このクリスマスの事実をどう考えたらよいのであろう。ファンタジーで終わらない真実があると思う。

現代に生きる私たち。誰しもが多かれ少なかれ、時として人生の困難さにぶつかり、苦しみ・悲しみに出遭うこともある。かくいう私も、一人息子が消息不明・私自身の結婚生活の破綻・長らくの闘病生活という苦しみを味わい、経済的にはお世辞にも豊かな暮らしをしているとは言えない。そんなわけで人を羨ましく感じたり、人並みではないことへの劣等感がある。

私の場合は特殊なケースかもしれないが、それにしても、誰もが少なからず、闇を抱え生きざるを得ないのは、時代が変わっても現実であると言えるかもしれない。

さて、お告げを受けた羊飼いたちは、どうしたであろう。「喜びと幸せが訪れるなんて幻想だ」と、目の前に天使が舞い降りた出来事をファンタジーだとして片づけただろうか。いや、聖書によれば、彼らは、息せき切って、マリアが出産した場所を探して、救い主(イエス・キリスト)を拝するために駆けつけたのだった。

私はミッション系の保育園に通っていたのがキッカケで、二歳から教会へ通い、中学一年生の時に洗礼を受けた。聖書を学ぶ専門学校で三年間の訓練を受け、キリスト教会で働いてもいたが、それでも、前述したように、私の人生には闇があることを否定できない。

しかし、いま、もう一度、このクリスマスの事実を「ファンタジー、幻想ストーリー」とはせずに、イエス・キリストのもとに走り寄りたいと願う。

「世界で初めのクリスマス」は、苦しみや劣等感を持つ人たちのところで、
"喜びと幸せの宣言"がなされた。これこそが今の時代にも繋がるクリスマスの意味であると、この記事をとおして伝えたい。

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