「不惑」を過ぎて随分と経つけど、いまだに惑ってばかり
今年も無事に誕生日を迎えることが出来た。
儒教の祖である孔子は『論語』の中で、「四十にして惑わず」と言っている。しかしながら、ちっぽけな私は40をとうに過ぎた今でも日々惑うことばかりで、時折そんな自分が嫌になる。
それもこれも、周りの情報量が半端なく多いからだ。スマホが普及して10年以上経つけれど、それが原因で世の中の情報量は10年前の530倍と言われている。さらにデータ元は不明だが、1日で受け取る情報量が江戸時代の1年分だと言われたりもしている。
まあ、正確な増加量ははわからないけれど、とにかく不必要な情報が多すぎて、それに可処分時間を奪われてしまって惑うことが大半。
人生80年と仮定すると、もう折り返し地点はとうに過ぎているわけで、それなのに、こう惑ってばかりなのはこの膨大な情報の渦に飲み込まれているからだ。そう考えると、デジタルデトックスは自分にとっての必須項目。
ただ、TwitterもInstagramもYouTubeもありとあらゆるSNSが自分の時間を奪おうと襲いかかってくるので、それに負けてしまって、ただ、だらだらと過ごしてしまうこともよくある。
この前、久しぶりにスチャダラパーの「ヒマの過ごし方」という曲を聴いた。1993年のリリースだからもう28年も前の曲。でも、2021年の今だからこそ、このヒマの過ごし方に共感する部分がとても多いことに気づく。可処分時間がまじで足りないのだ。そして、大仏、ピラミッド、巨乳、万里の長城、なんてデカイモノについて考えるヒマというか余裕が全くないのである。
一日24時間で睡眠時間が8時間、仕事が8時間、食事その他もろもろで2時間とすると、残りの6時間しか無い。で、この時間に散歩したり、noteを書いたりといった毎日のルーティンがあって、家族と過ごす時間も考慮するとあっというまに無くなってしまう。
観たい、聴きたい、読みたいってものもけっこうたくさんあって、インプットをどれにするか迷っている時間も結構多くて、そんな取捨選択する時間がもったいないというか、本当に渦にのみこまれている感じ。
小2の次男の口癖は「ひまー」だ。彼はやることが無くなるとすぐにこの言葉をお決まりのように発する。宿題終わって、YouTubeにも目新しい動画がなく、ゲームも一段落して、手持ち無沙汰になった途端にこの言葉を発する。そんな時、時間を交換してくれよと思うこともしばしば。
「不惑」の「惑」は「或」という説があるらしい。「或」とは、柵を作って区切るという意味とのこと。つまり区切らないということか。
迷っているヒマはないから、区切らないでなんにでもチャレンジすることが大事かも、そしたら「五十にして天命を知る」になれるんかな?と思った誕生日の朝。