舞台に上がる準備はできているか
役者になろうと思ったことはない。
演劇やテレビはいつだって見る側だ。
向こう側のタレントの惚れた腫れたや、芸人の爆笑もすべりも、茶の間で無責任にコメントしている。
noteの毎日投稿を止めたのは先週の月曜日。
時間に追われ書いた文を吟味することなく投稿してしまったり、新たなインプットをせずアウトプットすることの無理だったり、手段が目的になってしまったりが見えてきて、勇気をもって立ち止まって見た。
間違えて過去の記事を削除してしまって、連続投稿が途切れてしまったことも理由としてなくはないが、きっかけだったと思う。
毎日投稿を辞めて、今日は久しぶりにアウトプットに追われることなくただただ思考を伸ばすことを楽しんだ。
いつだって環境は頭にも心にも影響を与えるわけで、今日のお楽しみの場所は北谷のアラハビーチ。
すぐそばに穏やかで美しい海が近くにあるから沖縄は好きだ。
子どもを遊ばせている母親を横目に通り過ぎ、ヤシの木の影に陣取る。
アウトドアチェアと簡易テブルを広げ、しばらく青い海を眺める。
積んでおいた本を読みながらチルなタイムを過ごす中で、どれほどの人たちが僕の周囲を通り過ぎただろう。
左を向けば老夫婦のランチ。語り口は少なく、クーラーボックスで冷やしたお茶を静かに飲んでいる。
右を向けば外国人のカポエラグループ。太鼓のリズムを鳴らし、艶めかしく舞っている。
斜め右には父母とちびちゃん二人の親子ピクニック。じっとせず走り回る息子に両親はたじたじだ。
アイスを頬張るキレイなお姉さん二人。女子トークに花を咲かせているようだが、何の話しをているのやら。
ランニングをする部活生や米軍人。9月も末といえど、まだ暑い沖縄の日差しの中、身体を鍛える人たちは尊敬する。
2時間も陣取っていたのは僕くらいで、僕の周りにはいろんな人が現れては去って行った。
あらゆる人があらゆる理屈で、この場所にたどり着いたのだろう。
自粛疲れかもしれないし、日ごろから海が好きなのかもしれないし、家が近いからかもしれないし、なんとなくかもしれない。
どんな理由があっても「ここでなければダメ」という理由を探すのは難しい。
そんな中、年齢も、家族構成も、住む場所も、考え方も、何もかもが違う人たちが、集まっては触れ合いもせず、またすれ違っていく。
そんなことに、どうしようもない寂しさだったり、不思議さを感じざるを得ない。
トロピカルな背景の中で浮かび上がる彼らの物語を想像して楽しむ、そんな一人遊びが続いた。
それはさながら舞台を見ているよう。
一人座っているだけで、様々な物語が目に映る。
当たり前だが、一組ごとに違う顔と構成があり、それぞれに物語がきっとあり、人はこうも多様だと思うばかり。
演目がだいぶ進んだ頃、目の前の舞台役者たちに対し、「みなさんお幸せに」と何気に心の中でつぶやいた。
無意識に唱えた台詞だが、その乾いた響きにとてつもなく無責任さを感じ驚いた。
いやいや、何を俯瞰して見ているんだと。
僕だって彼らと同様に自分の理屈でこの場所にたどり着いた一人である。
僕だってこの舞台上の役の一人なのだ。
何を自分だけ達観した視点で見ているのだろう。
急に自分もその他の中の一人だという自覚が芽生え出した。
きっと人生だってそうなのだろう。
目の前の出来事や社会との関わりに台詞ある役として参加するのか。
はたまた観客として傍観するのか。
人は時と場合によって切り替えているのだろうけど、役としての参加に慣れておくことは大事なのだと思う。
予め決められていない自分だけの台詞を吐いて、目の前の物語に影響をおよぼすのは確かに怖い。
考えこむと、舞台から降りることを選択したくなるのも事実。
けれど、場に与えたインパクトを与えたことで高まる自分の存在や、人脈・連なって起こる次の出来事などの広がりなど、得られるものは多い。
急に人前に立たされても自分の意見が言える人は、舞台に上がり慣れているのだろう。
社会や目の前の事象を自分事で生きているのだろう。
そう、場に与える影響を恐れてはならない。
役者になろうと思ったことはない。
けれど、自分の人生くらい傍観者ではなく、主役で在りたい。
僕の目の前に起こる全ての事象は僕の物語の一節であり、無責任に関わらない。
自分の台詞をもって僕だけの物語を展開していくのである。
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