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No.31 お母さんの人生

私の”お母さん”(母とせずあえて”お母さん”と呼びます)のことをだいぶま前から書きたいと思っていました

私が #摂食障害 にはまった約35年前はこの病気はまだあまり一般的ではなくて「母原病」だと言われた時代だったので私のお母さんはものすごく辛かったと思います😢

でも当人の私としてはお母さんのせいだと思ったことはなくて、申し訳ないという思いしかありません、もちろん家族に原因があるとは思いません

お母さんお父さんともにふつうの良識のある人たちだし、たかちゃんは長女で3人兄弟だけどそんな特別な環境で育ったわけではありません

原因だとは思わないけど…思うことはあるので書きます!

お母さんの人生

お母さんはお祖母ちゃんと母娘二人で暮らしていました(お祖父ちゃんは母が1歳の頃に戦死してしまったから)
祖母は代用教員からの小学校の先生として女手一つで母を育てて国立大学まで出しました

私のお母さんは某国立大学教育学部英語科を卒業し中学校の英語の先生でした(当時は女性で国立4大卒はかなり優秀なので母も祖母も頑張り屋です)
そして24歳で見合いで地方公務員(県庁勤め)の父と結婚しました

地方の同じ市内で嫁いだのですが
母は町の子、父は農家の長男だったので
嫁いだ母は田舎の兼業農家に嫁に行ったかたちになりました
同じ町の中なので祖母宅(母にとっての実家)は自転車で15分くらい2kmほどしか離れていません、いわゆるスープの冷めない距離…母にとって母である祖母と離れたくなかったんだろうなと思います
小さな町とはいえ町で育った娘が、農家の『家』に嫁ぐのは当時は多くあった例とはいえたいへん苦労だったと思います

私はその苦労を間近にみて育ちました

私は第一子長女だったのですが、お姑さんから後継になる長男でなかったことを嘆かれたとか…😅
お姑さんも先が長くなかったので家の存続=長男が欲しかったからでしょうけどね💧
(まぁ、その1年10ヶ月後に弟が産まれ、安心して逝かれたかな)
嫁姑の問題とともに田舎に嫁いで慣れない稲作や畑作業にとても戸惑ったと思います
それでも私を産んでから6年くらいは中学校の先生として働いていました

私は保育園に2歳から預けられ、4歳から2年保育で幼稚園に通いましたがその間は送り迎えは母の嫁ぎ先の方のお祖父ちゃんか、もしくは母の実家のほうのお祖母ちゃんとかどちらかのお迎えで面倒を見てもらっていました

お祖父ちゃんは畑に連れて行ってくれて私は畑でカエルを捕まえて(笑)遊んでいましたし 、お祖母ちゃんも(さすが元小学校教師!)ほんとうにたくさんの工夫をして楽しく過ごさせてくれていたのでものすごく恵まれていたと思うのに…寂しかった記憶は無いのですが…
でも寂しかったのかな?よくわかりません
保育園は大嫌いでしたお昼寝の時間が苦痛で通園バスになんとか乗らずに済むように祖母を騙したことが何回かありました
幼稚園も大嫌い、男の子が怖かったのと先生に不信感を抱いてましたので(このあたり詳しく話すと長くなり本題から外れるので割愛しますね)

私も少し変わってる子だったんだと思います、とてもナィーヴで繊細だったと思う
ずーっと泣いてる子だったの😓
マイナスなほうに想像力豊かで一言ゆわれるとあらゆる悪いほうの想像がバーっと駆け巡るタイプで、そして泣くことでしか表現ができなかったから

あんまり泣くばっかりだったから
卒園式の時に先生から「〇〇ちゃん泣くばっかりしているとお母さんやお父さんが死んだ時に涙が枯れて出なくなりますよ」と言われたの今でもショックで忘れられない…この言葉がどれだけ私をビックリさせてショックで酷い言葉か⁈分からない人はたぶん感覚が違いすぎて分かり合えないと今でも思ってる

とにかく今思い返してみて少し変わってて繊細すぎる子だったと思う

でもお母さんが大好き❤だったの、小学校低学年くらいまでお母さんが一番尊敬する人でした
お母さんは現役の中学校の英語の先生でしょっちゅう教え子が遊びに来て私も可愛がってもらったし、先生をやっている母が一番の自慢でした

一歳十ヶ月差の弟が生まれても母は教師を続けたけど、6歳差の妹の産休明けに教師を辞めてしまった
私が7歳、小学2年生のとき

ずっと寂しかったのは事実だけど、「私の母さんは先生だ」と自慢に思っていたので残念だと思う気持ちの方が強かったな

それからは、母の『生き方の迷い』を間近に見るかたちで私は育った
母はなんで中学英語教師をやめてしまったんだろう?
「私たち3人の子供のため」と言っていた
でもそれだけじゃなく、兼業農家だった家のため
考え方の古い父が外に働きに行くことをよく思わなかったから
義理の父(お祖父ちゃん)の介護が必要になったから
たくさん理由が重なってある

でも。お母さん、私はね、知ってるよ
お母さんがほんとうにやりたかったこと!
どう生きたかったか!一番そばにいて痛いほどわかってた、見て感じで大きくなってきたんだ❗️

お母さんは幸せじゃない(そう思って育ってきた)
私たち子どもために⁈ずっと我慢してきたよね
やりたい事を諦めて、周りに合わせて
姑女をり看取り、姑も介護の末看取り、慣れない田んぼや畑作業に駆出され…
”こんなはずじゃぁなかった”とすごく思っていたはず。。。
私はそれがとても哀しかったのだ😢
先生をやってて活き活き輝いていた頃のお母さんを長女のわたしは一番知ってるから

辞めて、意に沿わないことをやってストレスや不満気味なのも分かったし、その頃から太った太った痩せたい痩せたいと悩んでいろいろダイエットも試していたのも知ってるし(´Д` )

子どもはお母さんが大好き♡
お母さんが幸せでいてほしい!お母さんが幸せで笑顔でなきゃ子どもの私も幸せじゃないの!

私は自分のお母さんが「思うように生きて欲しい」とずっと思ってきた
私は確かに寂しかったけど
お母さんがやりたいことをやって
やりたいことのために悩んでその解決のために格闘するのを見る方が望みだったんだ、

当時はよく分からなかった、今ははっきりわかる
私の父が封建的な(明治時代くらいの)古臭い考え方の人だったことに、母ならず私ですら反発を覚えてたので
どうして母はこんな古臭い考え方に縛られて生きているんだろう?(こんな古臭い考のお父さんなんかやっつけてしまえ!別れてしまえ!)そう思ってた
お父さんのせいでお母さんが辛いんだ不自由なんだとずっと思ってきた、だからお父さんが嫌いだった

お父さんも考えが明治人級に古くて男尊女卑だけど悪い人ではなかったよ、娘、女の子に何を言ったらいいかわからない、そんな父親だっただけ。ほんと子育て母に任せきりのタイプだった。それでもたまに休みにキャンプやスキーにそれでも連れて行ってくれてたんだよなー。

中学の教師を辞めてからしばらくして母は
自宅の離れで中高生向けの英語塾を開きました。かなり評判良くて、教え方ほんとうに上手だった!
(大学への合格実績もかなり良かったはず…クチコミでずいぶん遠くから生徒が通ってきてくれました)
私も活き活きと英語を教える母が誇りだったし大好きだった

それでも母の本当にやりたかったことはできていなかったのかな😞
ドクターショッピングならぬ、カルチャーショッピングと、ダイエットショッピングだったなぁ。。。
いろんな習い事して、いろんなダイエットを繰り返してたもんね

英語塾をやめなくてはならなくなったのは、祖父の入院介護があったから
そして3年ほど介護に費やしたと思う

その間は私が家事をかなり手伝って夕食はほぼ私が担当だった、私は私とて…中学の部活を一年の夏休みの後やめて帰宅部となり祖父の介護をする母を助けてかなりの家事をこなしていました。

介護が必要だった祖父が亡くなったのが私の高校入学式の直前で、お葬式と重なったため入学式欠席でした
ま、卒業もできなかった高校なんで、入学式も卒業式も縁がなかったということで😅

祖父の介護、看取りのあとすぐ、私の摂食障害の問題を抱えることになるんだ

振り返るたびに申し訳なかったと思う、亭主関白な父に言いたいこと言い返さず
本当にやりたかった仕事も辞めて
“田舎のただのおばちゃん”
“太って不満がちな主婦”

母自身が「こんなはずじゃなかった」「ほんとうの私はこんなじゃない」という自己否定の気持ちと不完全燃焼な気持ちをずっと抱えていて…長女で同性で長くそれを一緒に味わった私は自分に取り込んでしまったんだと思う

母の自己否定と不完全燃焼をそのまま受け継いでしまったワタシ😓

「ワタシはお母さんみたいになりたくない!』かって自慢のだったお母さんなのに憧れのお母さんだったのに…その頃はそうはなりたくない存在だった

“ただの なになに…”でいたくない
ただの女の子でいたくない
ただの高校生でいたくない
ただの優等生でいたくない
特別でいたい

“ただの”を埋めたのが”痩せた”だったんだなぁ
「痩せた特別な自分」でいることだけが自己肯定で完全燃焼なじぶん

だから ”痩せ” を手放すことはできなかった
”ただの” 私に戻りたくない

母の生き方というか「ため息😩」のようなものが娘のワタシに影響を与えたのは確かにあると思う
でもね、それは母が悪いわけじゃなくて母は母で一生懸命に自分の人生を生きてただけ
何にも悪いことじゃない
母は母の課題があってそれに一生懸命に向き合おうとして生きてきただけ

でも影響は与えるの!

親子で補完し合うというか、2人で一つというか依存し合う関係というか…
ド下手なかたちで甘えあってる関係というか

そしてたぶん…ワタシが摂食障害になることでその問題が浮き彫りになったんだ
心理的に離れがたい関係を(大学進学時に)物理的に距離を置くことで離した

お母さんの問題はお母さんの問題!
ワタシの問題(摂食障害)はワタシの問題!

そうなの、ワタシの問題はお母さんの悩む問題じゃない
お母さんの問題もワタシが悩む問題じゃない

もちろん家族だから普通に家族として愛情として心配したり助け合ったりはあるんだけど
一体じゃない、共有じゃない、依存じゃない
独立した個と個なんだ

摂食障害の原因がすべて同じパターンではないから他の原因でなる子もたくさんいるんだろうけれど…必ず私と同じような親子で共鳴しすぎるケースはあると思うの

親離れ子離れは思春期の大テーマ
病気であっても 否! 病気を抱えてだからこそ
親と子はそれぞれの人生を別に生きなければ…覚悟しなきゃだ


そして私も逆の立場、そう私も子供を持ち親になり
また当時とはものの見方も変わってきたけど
言えるのは
『やっぱり子どもはお母さんを大好き』
『お母さんに笑顔でいてほしい』
『お母さんの人生を活き活きと生きてほしい』と願ってる、赤ちゃんの時からずっとそう願ってきたと言った方がいいかな

お母さん、だからあなたの人生を貴方らしく活き活き楽しんで生きてほしい
私もそうするよ❣️


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