ある方へのメール
はじめまして、納谷崇文と申します
青森県下北郡川内町(現在はむつ市)で、1962.11.3.4:10に生を享け、父が営林署という当時の下級公務員の担当区職員だったため、岩手県藤沢町黄海→津軽郡小泊村→上北郡横浜町→岩手県雫石町に小6の時移住して、中2の時大工の伯父に自宅を建てて貰い、現在まで住んでます
地元の統合した雫石中学校の新1年生として、当時、東北一の設備といわれた学舎には、テレビスタジオとかもありました
剣道部で、主将で、団体戦では大将で、先鋒・次鋒と負けて、中堅・副将とで3勝して勝ったこともありますが、個人戦を含めても、何故か、一本勝ちか負けしかありません
一年の時、相手を場外に3回押し出して、反則1本勝ちした時は、教えていただいてた佐藤さんから、「相撲だな」と笑われました
当時、一学年7クラスで、1年時は6組、2・3年時は4組。学年は、青・赤・緑で区別されてて、おらあたちは青でした
テストで何番かはまったく興味がなくて、どっかに張り出されても見に行ったことはありませんでした
ただ、一回だけ、3年の時、岩手日報テストで、英語60点で満点、5教科計250点で1位でした。何故なら、担任の大谷律子先生が、「1位は納谷くん」とクラスの教壇で発表したので……1番後ろのおらあを皆が、「おお」と言って、眼を向けたので、ただ、小さく手を振りました
3年の夏に転校して来た、朝妻健太郎が最後の学期末テストで「納谷に勝った」と嬉しそうにしてたので、おらあも本当に嬉しかった。目標にしてくれてたなんて。
彼は後に三高に進学して、一浪して東北大学に進学し、仙台で歯科医を開業しビルを建てたりするのですが、彼のお父さんは早稲田大学出身で当時、鶯宿温泉で支配人をしてて、彼と一緒に受験した後、春休みにバイトさせていただいたのですが、おらあは志望高を落ちて、彼のお父さんに車の中で「鶏口となれど牛後となること勿れ」と話された時は複雑でした
妹は2人いて、上は一回だけ甲子園に行ったことがある四高、下は家で何も勉強せんでもいつも学年で1位だったらしく、兄の仇を討つことを周囲から運命づけられて──(彼女は仲のよかった友達と一緒に三高へ行きたかったらしいです)
2次募集で、底辺高の地元の雫石高校に進学したのですが、これが自分の最大の好運の始まりでした
一学年6クラスで、1~3年すべて6組(2・3年は持ち上がり)高校も学年が、青・赤・緑で分けられてて、この時もおらあは青
一年の時、生徒会の総務(書記ですね)をして、尊敬の出来る先輩が沢山おられることも知れました
不良と言われてた奴らともよく話をして、彼らには彼らなりのどうしようもない背景とかがあることも知れました
でも、いつの間にか、問題を起こし、退学していった奴も。
一年の時から、主濱幸彦先生に國語の添削をして頂いて、2年の時からは佐藤利男先生に英語の添削、その他沢山の先生に可愛がっていただき、倫理・社会は本当に好きで、かなり色んな本とかを勉強しました
3年時、進研模試で、化学は何を問われてるのかも理解できず、10点ぐらい、でも、倫理・社会は本当に解答するのも楽しくて、80点で全国で20位。県では1位だろうと想ったら、三高の奴が上に。今、想うと、同じ哲学科で遊んだ風張智貴だっただろうと。
同級生の佐藤利幸と同じ人文社会科学部に、泉沢栄は工学部、次の年、浪人して、野球部の不動の4番米田耕市、下黒沢(女子)が教育学部へ
夏休み、京都・奈良へ一人旅。その帰りに現在でいう統合失調症に。幸、前期試験は終わってた。入院してた時、前期試験の結果は心理学・哲学の2つは良、あとはすべて優
結局、2回入院して、6年で、朝日新聞に就職がやっと決まった政治学専攻の阿部と一緒に卒業、彼が家庭教師していた白龍で、じゃじゃ麺を奢って貰う
市民生協に補欠だったが、結局、辞退者はいず、手形割引の会社に就職するも、2ヶ月で辞す
一年勉強して、高校倫理・社会の教員試験一次合格するも、主濱先生に「病気を隠せば略歴詐称になる」と諭され、結局、分裂病の男を臨時採用してくれるところもなく、警備員、青果卸売市場、パチンコ店スタッフ、土木作業員などお世話になった職場は20以上
深夜0時過ぎまでの激務をし帰宅すると2時間も眠らない内に「ものがない」と言って、母に起こされ、1時間くらい探して見つけてやり、その後は延々と愚痴を聴く日々が続き、ある朝、2階の自室の屋根から、身を以て、落下の法則を試す
気がつくと、隣の畑で起きれない自分に気づき、母に発見され、人生で初めて救急車
手術は怖かったが、気づくと終わってた。妹に元気に携帯電話して、驚かれた
幸いにも、若い菅原先生は腕がよかったらしく、腰部脊髄にチタンプレートは一生入ったままらしい。でも、姿勢が保たれると考えればいいことかも
リハビリで市立病院に転院するが、人に本当に恵まれ、話をして大笑いし、「国境のない人、軽々と越境して来る人」などと評される
葛さんとは将棋をして何時も勝っていたが、最後にわざととではなく一回だけ負けて本当に良かったと──
西根中学の生徒会長で一高を受験する中学生とオセロをしたら、自分がイシを置いたら、すべて白一色に
美人で若い看護師だらけの院は薔薇色、冗舌に笑い、一人だけいらした鬼瓦みたいな看護師さんとエレベーターで2人だけになったが、何も話すこともなく黙ってたら、彼女、「私、結婚してますから」と何故か、怒ってエレベーターから家路へ
リハビリで鈴木さんにストレッチなどをしていただいた時、あまりの痛さに敢えて、笑ったら、リハビリ室は他の人たちも笑いで包まれ
本当に楽しい入院生活。21時過ぎても、楽天の日本一観戦許していただけ、外ではたばこも自由に吸えて
健太郎は仙台から、豪華果物セット持って来てくれて、同室の人と美味しく食べて
吾が世の春でした
それから、退院して、冬に杖付いて買い物してした時は辛かった
毎日、母に料理食べさせて、何にも味見しなくても、感覚で調味料入れても不思議といい味で、下の妹もそれが出来るのに、何故か、結婚して息子2人いる上の妹だけ、それが不能で、でも、彼女3人の内で1番実務能力、世間的なこと、運動神経よくて美人と言われてるのに
「後、何年生きてしまうのだろう」と人生に倦んでだら、母入院して、そのまま、施設にお世話に。
妹2人のお陰で、おらあはその頃から、精神障害者年金受給出来るようになり、2017年にネットを見る様になり、know-howコレクターに
7月下旬、片道600km cross bike漕いで、標識だけ頼りに4日で東京着いて、帰りは雨も降ったので10日程で、8月3日の0時過ぎ帰宅。初めて、東京タワーや皇居を見た
9月から、SRCに入会。本当に仲間には恵まれて、おらあはただ、どうすればいいか、相談しただけなのに、同志は食べ物とかお金まで送って来て下さって、おらあは冗談言って笑わせるくらいしかお返し出来てないのに、55万円ポンと出資して、トレード学べと言って下さる同志とかもいて、その方には10倍にしてお返しすると決めてる
でも、その中神あきらさんのタートルプロジェクト結局ポシャって
充分な投機する資金おらあにあれば、返せるはずだと踏んでたのに、素素のタートルの本読めば、投資資金までまさか参加者持ちは絶対おかしい
彼、本、出したくても出せないの当たり前。何故なら、本の正しい解釈をしてない。結局、資本主義中途半端小金持ちの気概しかモテてなかった
以前、町の社会福祉協議会さんの資金管理受けてて、自己破産勧められたけど、断った。何故なら、同志にも10倍にしてお返しするのも駄目になるから
それに500万ある想ってた借財は実は100万と何十万からしい。でも、同志に550万にしてお返しするけどね
今は、資金管理は受けてないけど、お金不如意でインターネット止まること何時も、でも、昨日も有難い事に訪問看護の方御二方が食糧とか沢山差し入れてくださって
夏には町のグラウンドゴルフの先輩ご夫妻が本当に美味しい干柿を沢山2回もくださって。ただ、一緒にプレー楽しんでただけなのに
道具とかくださる方も数名いらして
おらあ、本当、温かい人人に恵まれて幸せで、沢山の方々に恩返しがしたい
今はこれで終えときます
誠にここまでお読みいただき、ありがとうございます
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