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【学ばない教師の指導は「力技」にいざなわれていくのではないか】〈教育力〉をみがく(家本芳郎)

注意と説教しかないのか

「指導する」という言葉を思い浮かべると、なんだか子どもに注意をしたり説教をしたりするようなイメージをもちませんか?
そして、大人から子どもへ、上から下へというベクトル「だけ」のイメージをもちませんか?

教師は子どもを指導するという立場にいますが、その指導が「注意」や「説教」と似た意味で捉えられているところがあるように思います。
大声で威圧的に子どもを注意すれば、委縮してその時だけは言うことを聞くかもしれません。
しかし、その大声での注意を日ごろから安売りしていれば、子どももだんだんとなれて効力が薄れてきますし、「別にいいもんね」と開き直られたら注意による指導は行き詰まります。

そもそも、教師がとるあらゆる行為行動が「指導」です。
しかも、それは何気ない一言やそんなつもりのなかった行動にも宿ります。

指導はきわめて多様である。あらゆることが指導として成立する。無作為に辞書を引いて、出てくる言葉はすべて指導の方法である。
暗示する。愛する。脅かす。育成する。演示する。援助する。殴打する。挑発する。自傷する。忠告する。泣く。説得する。命令する。指示する。合意する。反論する。
これらは、すべて指導の方法で、実際には、そのいくつかを組み合わせ、変奏させて、指導を成立させている。

〈教育力〉をみがく(家本芳郎)
第1章 教師の〈教育力〉 より

例えば、誰が捨てたか分からないごみを担任がそっと拾う。
それを見ていた子どもたちが「先生が拾った。ぼくも拾おう」となれば、その何気ない行動も「指導」です。

この「指導」の質が落ちてきていると筆者の家本芳郎さんは言います。

例えば、「注意をしたくらいでは効き目がないから、校則にしてほしい」という教師。
「具体的な指導のイメージが湧かないから、取り組めない」という教師。

画一的に指導の方法を統一しようという、学校スタンダードも導入されて久しいですね。

教育課程の基準は学習指導要領で大まかなものが定められていますが、指導の方法については各教師の力量やキャラ、得意なことなど、様々な要因をくみあわせ、多様な手立てを構想できます。「こうでなければならない」ということはないのです。

家本さんは「指導方法を統一することは間違い」としています。

統一指導の名のもとに、自分にそぐわない指導法によって指導させられると、かならず無理が生じ、指導不成立を招くことになる。

〈教育力〉をみがく(家本芳郎)
第3章 指導の技を極める より


〈教育力〉を磨かない教師は自身の指導を「力技」へと向かわせる

昨今、働き方改革や業務効率化が叫ばれています。
幼い娘、息子をもつ私も、早く帰らなければ保育園のお迎えに間に合わないので、勤務時間内は必死のパッチで働きます。

その「必死のパッチ」が自分の業務に向いているだけならいいのですが、子どもに向かうとおかしなことが起こります。

  • 「余計なことをして手間を増やしてくれるな」

  • 「教師の指示に黙って従えばいいんだ」

  • 「言うことを聞かないとつるし上げるぞ」

さすがにこんな物騒なことを考えて働き方改革をしている人はいません。(よね?)
ただ、教師としての影響力の発揮の仕方、つまりは教育力を磨くことを怠って注意と説教ばかりをくり返していると、子どもたちの内面にはこうした物騒な思想がじわりじわりと広がっていってしまうのではないか、ということです。

こうした環境で子どもたちはのびのびと自主性を発揮したり、試行錯誤しながらたくましく取り組めるようになったりするでしょうか。
精神的に参ってしまってエスケープや逸脱行動に走るか、
教師の言うことを内面化して教師の手先として生きるか・・・
どちらにしても子どもにとって望ましい教育になっていないことは明らかです。

教育力を磨かなければ、子どもを短い時間で簡単にコントロールする「注意」と「説教」に指導が傾いていきます。
とはいえ、この「注意と説教」を中心とした力技をよしとする価値観の教師もまた、子どもたちのために良かれと思ってこの方法を取っています。
「地獄への道は善意で塗り固められている」というドイツのことわざが思い浮かびます・・・



自分がそうならないためにも、

  • 子どもに好かれ、信頼されるような関係づくりを日ごろから積み重ねる(特に、一緒に遊ぶ)

  • 日々の教育実践(教科だけでなく、話し合いや日ごろの活動、行事運営など)の指導について検討し合う仲間をつくる(できれば若手と一緒に取り組む)

これらに取り組みながら、自身の指導の硬直化だけは避けたいと思います。

また、指導の画一化に対しても、影響がどのように出てくるかを注意深く考えながら、指導方法の選択の自由があることだけは自分に言い聞かせながら子どもと向き合っていきたいと思いました。


特別な研修に頼らずとも、子どもから学べば〈教育力〉は磨かれる

私たち教師には
「その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない」(教育公務員特例法第21条1項)
とあるように、進んで自己研鑽に取り組むことが求められています。

しかし、授業研や教育委員会主導の教科教育の研修はあれど、実際の場面に応じた指導の質を問うたり、この先の指導の引き出しを増やしたりする研修はほぼないと言っていいでしょう。


そんな「指導」をいつ、どこで磨くのか?


それは今、学校で、目の前の子どもや同僚と磨くのです。

「注意や説教」といった「上から下へ」だけの力学に陥らないように、子どもに事情を聞き、それを受け止めることだけは肝に銘じたいと思います。

本書で取り上げられているエピソードを1つ紹介します。

給食の後、みていると、係の子どもがじょうろに水道の水をいっぱい入れ、赤い傘をさして、学級花壇に運び、水をかけはじめた。
教師はそっと近づいていって聞いた。
「雨が降っているのに、どうして水やりしたの」
「だって、先生。雨の水よりも、水道の水の方がきれいなんだもの。きっと、きれいな花が咲くよ」
教師はこの言葉に深く感動して立ちすくみ、言うべき言葉を失ったという。

子どもの発想に驚嘆する。子どもの行為は見ただけでは、その心にあるものに迫れないことがわかる。まずは聞いてみることであろう。その上で、理解し、共感し、その是非を評価し、指導しても遅くはない。先の高学年の教師のように、「雨の日に水やりしているバカ」と、一言のものに退けては、指導は空転するだけである。

〈教育力〉をみがく(家本芳郎)
第1章 教師の〈教育力〉 より

大人の都合や学校の常識、教師の目で子どもを理解したつもりにならず、子どもの奥深い世界を紐解く。
そうして「子どもから学ぶ」というスタンスが、指導の方法を豊かにし、さらには〈教育力〉を磨くことにつながるのだと感じました。



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