マガジンのカバー画像

(小説)笈の花かご

56
この物語の主人公は、帷帳登子。 ある日、主人公が、ヒヤリとする出来事に遭遇したことから、トバリが開く。そのトバリの奥から、「アレマア、オヤマア」と、驚きあきるばかりに、老いの数々…
運営しているクリエイター

2023年11月の記事一覧

(小説)笈の花かご #7

1章 長崎への旅⑶ スイデン夫婦は、長崎への旅でイチョウの実家に招かれ、数々のご 馳走で持てなされ、歓待をうけた。 2人は懐かしい長崎の味を堪能した。 それに加えて、久し振りに長崎弁のシャワー浴びた。 老人ホーム探しがうまくいかず、スイデンとイチョウは疲れ切っていたが、実家に集まった人々の懐かしい長崎弁に囲まれて、すっかり癒やされた。 とりわけ、弟・正人の長崎弁は、独特の長崎弁であった。 正人の話す言葉には、ところどころに、母親の言い回しや抑揚が混じっていた。母親の育った外

(小説)笈の花かご #8

1章 長崎への⑷ 目的を果たせないまま、石川県の自宅に帰ることになったイチョウの前に、帰路のさまざまな困難が待ち受けていた。 長崎空港から羽田空港までの飛行時間は思っていたよりも長く、イチョウは疲れ果てた。 羽田空港での乗り換えは、簡単なことではなかった。 かつて経験したスンナリした乗り換えはできなかった。 空港では、一旦、ゲートを出て、通路を延々と歩いた。 小松行きのゲートまで、動く歩道を幾つも利用して進んだ。 この時、空港にある車椅子を利用すればよかったのに、イチョウ

(小説)笈の花かご #9

2章 スイデン夫妻、モクレン館へ⑴ 地域支援センターで教えて貰った施設を、2人で見学することになった。 モクレン館が第1候補となった。 施設紹介のパンフレットを見て、スイデンも、「ウン」と頷いた。「ウン」と頷いただけのスイデンである。 「老人ホームを探すか」とスイデンは呟いたが、単に呟いただけである。この先、スイデンがどのような態度に出るか、イチョウは不安であった。 イチョウの不安は的中した。 実際、「ウン」と承知して、モクレン館の見学に行ったが、話が入居契約になると、ス

(小説)笈の花かご #10

2章 スイデン夫妻、モクレン館へ⑵ モクレン館は、商店街の裏手にある。 建物は、鉄筋コンクリート5階建で、3階から5階は、建物の真ん中が、真四角に空いた構造になっている。 大雪が降るとその空間に雪が降り積もり、2階部分の四面ガラス屋根の周辺に雪が溜まる。 3階から上の階には、居室の外にベランダがついている。 そこに各部屋のエアコンの室外機が置かれている。それを隠すように、白い板状のものが3階から5階まで貼り付いている。 それがデザインとなって、建物の外観を豊かにしている。

(小説)笈の花かご #11

3章 モクレン館5階の怪音⑴ スイデンとイチョウがモクレン館に入居したのは、まだ新型ウイルスの感染が話題にもならない頃であった。 モクレン館では、夫婦で入居すると、職員は、夫を姓で呼び、妻を下の名前で呼ぶ。 しかし、スイデン夫婦の場合は、違った。 スイデンが、妻を「イチョウ」と呼びかけたのを、片口施設長が聞き咎め、「トウコさんでは?」と訊いて来た。 旧姓は、帷帳登子、結婚して姓が変わり、水田登子。 イチョウは、結婚前からの通称名である。 (イチョウの由来は、(小説)笈の

(小説)笈の花かご #12

3章 モクレン館5階の怪音⑵ スイデンの音の苦情がなくなって、ヤレヤレと思っていると、イチョウの部屋にもさまざまな音がすることに気付いた。 最初に気がついたのは、ドアの閉開音。 イチョウは、廊下側の壁に、ベッドをぴったりと寄せている。 壁の向こうには収納庫がある。シーツなどがびっしりと棚に収まっている。職員が収納庫の開閉を乱暴にすると、イチョウの部屋に音が響いて来る。 イチョウは飛び出して行き、 「アナタ、扉の閉め方が乱暴よ」と、職員に注意した。 その時はすぐに、収納庫の

(小説)笈の花かご #13

3章 モクレン館5階の怪音⑶ 夕食後の18時すぎ、イカナゴ職員がイチョウの部屋を訪れた。 スイデンも顔を出した。 ところが、である。 さっきまでカサコソと響いていたのに、音が消えている。 しばらく待ったが何の音もしない。 「アレ?」イチョウはクビを傾げた。 スイデンは、それに対して、論理的な見解を示した。 「4階の音が、天井を伝って来ているのではないか」 3人でグダグダ言い合っていると、片口施設長が、偶然イチョウの部屋の前を通りかかった。 話を聞くとすぐに、 「それは4階食

(小説)笈の花かご #14

4章 エレベーターは5階まで⑴ イチョウは、モクレン館最上階の5階に入居してすぐ、その人と出会った。 昼食の後イチョウは、2階の事務室に、手紙の投函を頼みに行った。 その帰り、エレベーターを待っていると、 「一緒に頼みます」と、白髪の大柄な男性が横に並んだ。 彼は、何やら香ばしい匂いを体中にまとっていた。 イチョウの鼻が動いたのを目ざとく捉えたらしく、彼は、 「2階のキッチンで餅を焼いて貰いました」と言った。 「2階のキッチン?」とイチョウ。 「差し入れの品を焼いたり、切っ

(小説)笈の花かご #15

4章 エレベーターは5階まで⑵ 鴎イチロウが、その日、何用あってか、人気のない暁に、2階事務所に出掛けたのである。 居室の5階に戻って来て、エレベーターを下り、数歩あるいた所で、バッタリと転倒した、という次第。 倒れ込んだのは、エレベーターホールに設置されたテーブルセットの下であった。 エレベーターホールに、ガタンという大きな音が響き渡ると、 「何事か」とドアを細めに開けて様子をうかがった入居者が何人かいた。音は一瞬で、後はシンと静まり返っていた。 鴎イチロウは、声が出なか

(小説)笈の花かご #16

4章 エレベーターは5階まで⑶ 5階のエレベーターホールで、2回目の転倒してから1ヶ月後、鴎イチロウは、歩行器と共に3階の居室へ転居となった。 3階の食堂にはヘルパーステーションが設置されていて、常時、介護職員が詰めている。 鴎イチロウの介護度が重くなったための転居であった。 4階の食堂から、鴎イチロウの姿が消えた。 (淋しいなあ……) スイデン夫妻は、彼のいたテーブルを、空しく眺めるばかりとなった。 が、イチョウは、3階にあるミニ図書室を利用する際に、鴎イチロウと会う機会

(小説)笈の花かご #17

4章 エレベーターは5階まで⑷ その後も、磯口すすむは、スイデン夫妻に会えば、「妻恋し」を繰り返し訴えた ある時は、妻が選んだというTシャツを着て、 「妻との思い出を着ています」と、涙ぐむこともあった。 磯口すすむの「妻恋し」は続いた。 「折々の法要をキチンと行い、残された人はしっかり生きて行くことが亡き人への供養になるのでは」と、イチョウは思う。 (どうしたものやら……) 磯口すすむは、その後も妻のことを語り続けた いつまで彼の繰り言を聞くことになるのかと、イチョウは、

(小説)笈の花かご #18

5章 モクレン館の誕生日会⑴ スイデンは、81歳の誕生日を迎えた。 杖は持ち歩いているが、杖なしでもスタスタと歩いている。 大きな体はしっかりして姿勢もいい。 モクレン館2階ホールで、5月生まれの誕生日会が開かれた。 祝・お誕生日 のパネルの下に、3人の入居者が並んで座った。参加者全員で「ハッピー・バースデイ」を唄った。 スイデンは、布で作った大きなケーキを抱いて、うれしそうに写真に収まった。 ショートケーキを参加者全員でいただいた。 3ヶ月遅れて、イチョウも、81歳と

(小説)笈の花かご #19

5章 モクレン館の誕生日会⑵ イチョウは、モクレン館の暮らしに馴れて来ると、各階の入居者が、ポツン、ポツンと、いなくなって行くことに気付いた。 他の施設に移る、自宅に戻る、入院する、と理由は色々ある。 施設内で死亡することもある。 入居者は全く気が付かない。 職員にたずねると、 「検査入院のようです……」 曖昧な返事が返って来る。 職員がモゴモゴ言っている時は、 (病状が深刻で、長期入院になるな……)と推定する。 何ヶ月たっても、まだ、 「検査入院です……」と職員が言う頃