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ゲーム制作のための文学(2) 全体の計画

現在、ゲーム制作者に役に立つ文学入門書を制作集です。題名は『ゲーム制作のための文学』。2022年、今年5月29日に開催される文学フリマ東京で出品する予定です。

文学フリマ東京での販売価格は500円を予定しています。

この本のテーマは、題名そのままで「ゲーム制作のための文学」です。


『ゲーム制作のための文学』の文学は、noteでTRPG制作日記として投稿していた一連の記事をベースにしています。

今回採用する記事は、以下です。

ライオンと魔女(CSルイス)
日本書紀
源氏物語(紫式部)
平家物語
琵琶法師と演劇
ハムレット
神曲(ダンテ)
ドン・キホーテ(セルバンテス)
デカメロン(ボッカチオ)
ガルガンチュアとパンタグリュエル(ラブレー)
ドン・キホーテⅡ(セルバンテス)
聖書
天路歴程(バニヤン)
小説の誕生(デフォーとスウィフト)
ゲーム制作と文学
ゲーム制作と文学
ゲーム制作と文学(差別)
ゲーム制作と文学(コミュニケーション)

これらの記事は、『太陽神の巫女-AmaterasuCard-』TRPGを制作している過程で生まれました。

『太陽神の巫女-AmaterasuCard-』はあらゆる人々が未来について考えることができる環境を提供する。科学、文学、歴史の物語を結びつけることでそれを実現することを理念にしています。

小説も出版しており、現在も販売しています。

『太陽神の巫女-AmaterasuCard-』は文学を扱いますが、文学といっても考え方は多様です。

そのため、どのような文学を扱うのかを紹介しておこうとTRPG制作日記に記事を書きました。

今回、書籍にする過程で加筆修正しようと考えています。


ここで、『ゲーム制作のための文学』の第一章である「ライオンと魔女」の章を掲載しておきたいと思います。

この章を読めば、どのような入門書なのか想像できると思います。

『ゲーム制作のための文学』『

    第一章 ライオンと魔女


 義務教育を終えた多くの日本人が現実について、あるいは世界の真の姿について考えるときには科学を利用します。学校の科学の授業を思いだして、その内容を想定しながら現実なり世界なりを考えがちです。
 私たちの目に見えている世界は、小さな原子が集まってできており、化学組成により物質の性質は決まるのだ、つまり私たちに見えている世界は素粒子という目に見えない世界から生まれているのだ、と。
 この考え方は正しいかもしれません。私も科学者なので同じように考えます。しかし、正しい考え方だけしか知らないことはその考え方を理解することを妨げ、誤解を恐れず表現するなら本当の理解を不可能にします。
 間違った知識を持たない人は、本当の意味で正しい知識を理解することはできないできないものです。
 さて、ファンタジー小説について詳しい人ならば、C・S・ルイスの『ライオンと魔女と衣装ダンス』を名前くらいは知っているでしょう。もしかしたら、何度も読んだことがあるかもしれません。
 これは1950年に出版された児童文学に分類される本で、第二次世界大戦で空襲から逃れるために田舎に疎開してきた四人の兄弟姉妹たちが主人公である物語です。
 冒険は、彼らの末の妹が衣装ダンスから「ナルニア国」という魔法がある異世界に転移することから始まります。
 ルーシーは、そこでフォーンやドワーフなど魔物たちが暮らす、白い魔女に支配された冬の世界を発見します。寒く、そして神に対する信仰が失われてしまった世界です。ルーシーは、この不思議な世界を、他の兄弟姉妹たちと共に冒険することになります。
 冬の世界は絶望的な世界です。白い魔女という独裁者が支配しています。しかし、白い魔女を倒すために、このナルニア国にライオンのアスランが戻ってきます。冬に閉ざされた世界を救いに来たのです。
 しかし、アスランは現実世界から来た四人の兄弟姉妹の弟が起こした罪を代わりに償うために命を落とします。
 さて、ここまでのあらすじで直ちに理解できると思いますが、『ライオンと魔女と衣装ダンス』はキリスト教、しかも多くの小説のようにキリスト教を一つの価値観として扱っているのではなく、キリスト教で描いた話です。この物語はキリスト教を描くのではなく、キリスト教から無神論を描くのです。
 後の作品で明らかにされますが、アスランの正体はもちろん、イエス・キリストです(文脈から推測されるだけではなく、作中で「私はある」と発言するので確定です。「私はある」というのは聖書の出エジプトで神があなたは誰ですかと訊ねられたときに答えたときの、とても有名な言葉です。イエス・キリストも使っています)。
 神であるライオンと、神の敵対者である魔女。
 ここで私たちは、ちょっとだけ不思議なことに気がつくと思います。
 それは、神の子であり神自身であるイエス・キリストは現実世界の実際に存在する動物であるライオンとして表現され、いっぽう、神と敵対する悪魔は白い魔女という空想の生き物として描かれていることです。
 これはキリスト教徒か、あるいはキリスト教について学んだことがある読者には何一つ不思議ではないと思いますが、しかしキリスト教神学に一度も多くの日本人にとっては不思議な設定かもしれません。
 なぜなら、無神論は科学でどちらかといえば魔女に属しており、そして観念論は宗教で神に属している気がするからです。ライオンやシマウマなどの現実の動物は魔女、天使や精霊などの精神存在は神に属しているというのが自然な気がします。
 現代の多くの日本人は、神を物質的ではなく精神的なものだと考えます。
 科学主義で技術主義で物質至上主義で、科学的に証明できないものはすべて知性の乏しい社会的弱者の妄想であると考える現代的リアリストたちがいる以上、むしろライオンなり馬なり戦車なりが神の敵として登場するのが自然に感じます。
 宗教とは現実につかれた人が逃げ出す場所だからです。精神論者にとって、大切なのは目に見える物質ではなくて心なのです。
 科学は神の敵なのです。

 思想とは宣言ではなくて表現です。
 リアリズムのトマス・アクィナスや唯物論のデカルトについて少しでも勉強したことがある人ならば、ライオンが神で魔女が悪魔であることは自然に思えるでしょう。
 そもそも観念論というのは神の否定であり宗教の否定です。
 なぜならば、神が世界を創造した以上は、まさに物質こそが神の御心であり現実は神そのものだからです。
 また、多くの日本人の直感に反して、唯物論とは目に見えないものを信じることであり、観念論とは目に見えるものしか信じないことです。
 イギリス経験主義、という難しい話をしなくても、目をつぶった瞬間に真っ暗になりリンゴが消えてしまうという事実は、私たちが見ているのは「リンゴそのもの」ではなくて私たちの心が生み出した観念としてのリンゴである証拠です。
 視覚は観念であり、妄想です。
 だから、目に見えるものしか信じないということは、妄想と現実の区別はなく自分の妄想だけが現実であるという宣言と同じで、それは科学でもキリスト教でもありません。ただの悪魔崇拝です。
 CSルイスの『ライオンと魔女と衣装ダンス』は善の唯物論(ライオン)と悪の観念論(魔女)の戦いと解釈可能です。
 そして、それは作者が神を信じていることを明らかにしています。
 神を信じるということは、神を癒やしの道具にするのではなくて神が現実に存在していることを信じることです。
 CSルイスは神を信じる唯物論の視点から、人間の生みだした悪であるスピリチュアルや精神世界という妄想を攻撃します。
 さて、衣装ダンス、という単語が気になったTRPG愛好者は多いでしょう。
 もちろん、衣装ダンスというのは、衣装が、すなわち私たちが自分とは別の誰かになるための道具が収容されている場所です。
 そのため、衣装ダンスからロールプレイができるファンタジー異世界にいくのは物語の設定として妥当なことです。
 ところが、この物語は現実世界から空想世界、本当の世界から偽物の世界に行くという話ではありません。
 むしろ、逆です。
『ライオンと魔女と衣装ダンス』という児童文学は、第二次世界大戦という狂った世界から、神が支配するナルニア国に行き、そこで本当の子ども達のあるべき姿に戻る話です。私たちは独裁者の妄想世界から、神が支配する現実世界に行くのです。
 私たちは演技というと本当の自分とは別の誰かになることだと考えがちですが、それは一面でしかありません。
 実際のところ、私たちは演技をすることによって、自分達が日頃どのような演技をしてしまっているのかを知ります。私たちは、自分自身であると信じていながら実際には自分を演じているのです。
 そして、別の世界から今の自分達の世界を見ることは、むしろそれは現実について考えることを意味します。ゲームの世界への逃走は、そのまま現実への逃走です。
 私たちが現実だと思っていることのほとんどは、自分よりも権力がある他者から押しつけられた権力者の妄想です。
 コミュニケーション能力とは自分の妄想を他者に押しつけて相手の現実感覚を破壊する能力であることは、ここで忘れるべきではありません。
 多くの人たちは他者から押しつけられた妄想を現実だと考えて、他者の妄想から逃れるために自分だけの妄想に逃げ込みます。もちろん、自分が権力者である場合は自分の妄想を現実だと考えます。こうして宗教と観念論者が生まれます。
 しかし、多くの文学の考え方は逆です。文学は資本主義と宗教の敵で、権力者の妄想を現実だと考えることが問題だと考えます。
 CSルイスの描く世界は、全体主義と帝国主義が争う馬鹿げた世界を現実だと考えるのではなく、それを神の御心に反する馬鹿げた世界だと考える点で完全にリアリズムです。
 このことはファンタジー小説こそがリアリズムであり、そして戦争という厳しい世界を厳しく前向きに描く小説は現実主義ではなく、ただ権力者の価値観を現実だと勘違いしている空想主義であることを示唆します。

』『ゲーム制作のための文学』


唯物論と観念論を軸に編集する予定です。

本としてまとめるために、またゲーム制作のための文学というテーマを守るために新しい章を加えたり削ったりする可能性はあります。

これから、文学フリマ東京まで、月曜日から金曜日まで『ゲーム制作のための文学』の記事を投稿していく予定です。


見出し画像はIshida☆様に制作していただきました。美しいイラスト、ありがとうございました。

今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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