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ロマン主義を考える(3) 悪人はなぜ存在するのか? 【『ゲーム制作のための文学』】

悪人はなぜ存在するのでしょう? 世の中には他人の不幸を喜び、常に誰かが不幸せになることを望んでいるとしか思えない人がいます。また、そこまでではないけれども、ちょっとした意地悪や、人を困らせることに楽しみを見いだす人もいるようです。

それだけではありません。もっと端的に人殺しや盗人、犯罪組織に所属する人たちもいます。国家のお金をギャンブルで浪費して、裁判にかけられている人もいます。

なぜ悪人は存在するのでしょう?


ロマン主義といえばフランス革命、フランス革命といえばジャン・ジャック・ルソーを誰もが思い浮かべるでしょう。

昨日までは、たとえばフランス革命に反対して生まれたエドマンド・バークの保守主義や、ロマン主義に攻撃を受けた古典主義について書きました。彼等にあまりにも優しく書いたので、まるでロマン主義を悪の思想に思った人もいるでしょう。

しかし、思想や文学は特定の問題を解決するために生まれます。今日はロマン主義が何を解決しようとしたのかを考えてみます。


さて、次のような自然状態を考えてみましょう。法律がなく、法律を守らせるような人がいない。完全に無秩序で、何をしても許されるような個人が完全に自由な状態です。

このような完全無法状態において、人間はどのように振る舞うでしょうか?

ここで私たちはホッブスを参考にして人間本性に関する以下のような仮定をしてみましょう。

人間には以下の四つの普遍的な本質があると考えるのです。

(1)人間には他人を殺すに十分な平等な能力がある。

(2)人間が生きていくためには食料などの資源が必要であり、それは有限であり無限ではない。

(3)人間は知らない他者よりも自分と自分の家族、自分の友人を大切にしようとする傾向がある。

(4)人間は死ぬことよりも生きることが好きである。

これらの仮定はどれも妥当性があるように思えます。私たちは誰でも少なくとも他人を物理的に殺させるくらいには十分に平等な、精神的肉体的な能力を持っています。ナイフで人を刺すのは、決意さえあれば誰でも実行することが可能です。

(3)は心理学の実験により、それなりに正しいとされています。実験による証明がなくても、私たちが名前を知らない誰かよりも隣人、家族、自分自身を大切にするのは理解できます。なぜなら、名前も知らない誰かという定義は、その相手を私たちが知らないことを意味しているからです。

人は自分が認識していない人を助けることはできませんし、助けたいと思うからこそ彼等を家族や友人と呼ぶのです。

(2)は自然法則から自明です。

問題になる(4)ですが、証明は簡単です。なぜなら、死ぬのが好きな人は死んでいるので社会に存在できないからです。生きている人間は、例外なく死ぬことよりも生きることを選んでいます。

死んだ人間は社会にはいないのです。

死にたいと口にする人は多いかもしれませんが、死にたいと思っている人はすでに死んでいるので生存欲求への懐疑は擬似問題です。

自殺した人は自殺した瞬間に社会の一員ではない。社会の定義から生存欲求は意外なほど強固な仮定です。


さて、以上の仮定を認めて、さくさく計算していきましょう。

まず(4)生存欲求から私たちは生きることに必死なので(3)利己的仮定を満たすように資源を収集する。しかし、(2)資源有限仮説から他者と対立するので(1)殺人能力により他人を殺す可能性がある。

こうして、私たちは常に他人から殺される可能性がある。

そのため、(1)から(4)の人間本性は(4)の生存欲求を満たすことができない。

残念です。自然状態は上手くいかないようです。


しかし、強者が暴力と恐怖により弱者を支配すれば、(4)に違反するので弱者は(1)の能力を発揮できない。

結果、(4)の生存欲求は守られる。

上手くいきました。

よって、司祭や牧師、王侯貴族という徳の高い少数の強者が、あらゆる富と軍事力を独占することで、下劣で利己的な多数の弱者を恐怖と暴力で支配しなくてはならない。

愚民は選ばれし人間に支配されてこそ幸福になれるのです。


ちょっと待て、計算がおかしくないか? と考えたのは、もちろん自由主義の提唱者であるルソーです。

1%の富裕層と99%の貧困層に世界を別ければ、貧困層は1%の富裕層が怖いので良い子になるという結論は怪しいですが、それ以前に貧困層は富裕層に服従してもっと貧困になれば幸福になれる、という計算結果は間違いなく独善的に思えます。

むしろ、(1)から99%の貧困層が1%の富裕層を殺して世の中が滅茶苦茶になりそうだけど。


怪しいのは(3)です。自分を大切にして、家族を大切にして、社会を大切にして祖国を大切にする。そして、外国と戦争をする。

この仮定が入っている時点で、完全無法状態(自然状態)における人間の姿だとはとても思えません。少なくとも、すでに大日本帝国くらいの社会は存在しています。


ここで私たちは逆の発想をしてみましょう。個人は利己的で、(2)の資源有限の仮定から資源を他者から独占しようとして、(3)利己的の仮定から異なる社会を攻撃する。これは人間の自然な姿ではなくて、むしろ支配者階級から押しつけられている偽りの常識であると考えるのです。

他人を不幸にするためだったら、自分がどれほど不幸になってもかまわないという発想は自然ではありません。

自然状態においては、人間はそもそも他人を攻撃しません。なぜなら、時間の無駄だからです。

神の手を離れるときにはすべては善いものであるが、社会に触れることにより例外なくすべてが悪くなる。

ルソーは社会により人間が良くなるのではなくて、社会により人間が悪くなると考えました。

すべての悪は社会にあり、私たちが良くなるためには意識ではなくて人間関係を変えなくてはならないと主張しました。

彼は性善説、社会ではなく人間を信じていたのです。


この発想は宗教改革におけるルターにも共通します。問題なのはキリスト教や聖書ではなくて、カトリック教会です。

自分で聖書を読み、自分で考えて、自分で神を信じるだけで人は独善的な悪に染まることはありません。人間が悪に染まるのは、社会が生まれ、権力者の支配に従うときです。


こうして、ロマン主義という新しい文学が生まれます。ロマン主義は自然を重視するといわれますが、この場合の自然は以上の自然です。

理性と権威に否定的なのも理解できます。

人間を悪に染めるのは愛国心、祖国愛、民族主義です。人間は社会により道徳的になるのではありません。むしろ、第二次世界大戦における日本人のように社会により悪になるのです。

ロマン主義者は社会と戦わなくてはなりません。

アメリカ大統領レーガンが断言したように、国家は社会の敵であり、社会は人間の敵なのです。


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。よろしければスキ、フォローをお願いします。

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