絵画の鑑賞から中元節を知ろう!
台湾の中元節は、古くから伝わる宗教と文化が結びついた特別なお祭りです。農暦の7月1日、「鬼門開く日」として知られ、冥界の門が開かれ、亡くなった先祖や亡霊がこの世に帰ってくるという日です。家族が再会し、感謝と尊敬の念を示す一方で、、亡霊にの大パーティでもあります。
中元節には、さまざまな宗教行事と民間の風習が交わります。舞獅や舞龍、天灯の灯りが空を彩り、亡くなった人々への祈りと思い出が溢れます。また、街角には果物や料理、飲み物が供えられ、故人の好物を楽しんでもらうためのものです。
今回の文章は、有名な二つの絵で中元節を知ろうと行きたいと思います!
〈基隆燃放水燈圖〉村上英夫
上の作品は、村上英夫が1927年の第1回台展(台湾美術展覧会)で唯一の特選を受賞したものであり、同年には別の作品〈七面鳥〉も入選しました。
村上英夫の紹介
村上英夫(1900-1975)は愛媛県西条市で生まれ、美術を学ぶために東京へ上京しました。1921年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の日本画科に入学し、1926年3月24日に第35期卒業生となりました。卒業制作では「愛禽図」という作品を制作し展示しました。その後、彼は台湾の基隆田寮港(現在の基隆信義区周辺)に定住し、基隆高等女学校や基隆中学校で教鞭をとる傍ら、美術界でも活躍しました。
絵からローカルカラーを見る
この作品は、旧暦7月15日台湾の中元祭りの盛況を描いており、基隆の中元節は毎年最大の祭りの一つであり、約200年の歴史があります。
昔に台湾では二つ主なの漢民族グループ、漳州と泉州の双方による抗争がよくありました。清乾隆時代から道光時代まで続き、咸豊年間に最も激化しました。咸豊の初め、基隆の漳州系住民と暖暖の泉州系住民は魴頂(地名)を境界として設定しましたが、土地の境界、水田灌漑、商業利益などの問題からしばしば対立し、衝突や抗争が発生しました。
咸豊3年(1853年)、基隆の108人の漳州系住民が暖暖の泉州系住民を襲撃しようとしましたが、事前に泉州系住民に察知され、魴頂に伏兵を設けて108人全員を殲滅しました。この事件は基隆史上最も悲惨な抗争の死傷事件となりました。後に調停が行われ、108人の遺体は蚵殼港の河畔に共同埋葬され、当時は「老大公墓」と呼ばれました。現在の中元祭りは、その時亡くなった人たちや無縁仏などの為、あげられる大きいお祭りです。
作品全体は鳥瞰的な視点で描かれており、まるで別の建物のバルコニーからの景色として、繊細な線と色彩で中元の習俗が描かれてるみたいです。
では、以下の中元風俗や台湾の文化シンボルを一つずつご紹介します!
舞龍
絵の下に人並びの行列があって、祭りのパレードは中国語では「陣頭」と表れています。昔では「以陣頭代替打破頭(説明:抗争の代わりに、パレードで皆を集める」という言葉もありました。そして、この中には最も代表的なショーは舞龍(日本語:龍舞)も見えます。日本の方が獅子舞が多いかもしれませんが、台湾でも龍舞も結構あります。獅子舞と同じように福を祈り、五穀豊穣を願うものです。
戎克船(ジャンク)
当時の貿易船である戎克船(ジャンク)、この絵の碧海のところに現れています。船にの魚眼の方向によって、意味も変わっていくらしいです。魚眼が下に向かうのは漁船です。暗礁や水流を見透かして、安全に運航するように祈ってる象徴です。しかし、この絵の魚眼は上に向かってるが、これは商船だと判断できます。魚眼が上に見てるのは、商売繁盛を喜ぶことを象徴してるらしいです。
ジャンクの説明はこちらへ 山本三生(1930),日本地理大系・台灣篇。
灯籠
人々が提灯を持って街を歩く光景、水灯籠などの活動もこの絵でも表現されています。
右の人が竹で灯篭を上げてる行動は、「豎燈篙」という、簡単と言えば、陸上の無縁仏に知らせて、「こちらはご馳走がありますよ!」との招待状みたいものです。こちらに灯籠流しの姿を描いてないが、この作品の名から「燃放水燈」ということは、祭りのパレードが港口に灯籠流しをしに行くことがわかります。水灯籠も陸上の灯籠と同じようで、海の上の無縁仏にの招待状です。
浮世絵の旨味
また、特別なのは、日本人画家としての村上氏、浮世絵のスタイルも入れました。台湾日日新報(日本統治時代に発行されてた新聞)鷗亭生は台展(台湾美術展覧会)の東洋画部について、「浮世絵風の旨味を狙って相当丹念に克明に描き出してあるのが村上英夫君の基隆燃放水燈圖である。」との評論が残りました。
ただし、鷗亭生はこの作品は賛否両論あり、作品の右上隅と左下隅の装飾的な金雲は蛇を画きて足を添う行為であると指摘しました。実際、このような手法は安土桃山時代に由来し、幕府はその力強さを示すために建物や絵などに、豪華な装飾を追加することが好まれ、数多くの金碧障壁画や屏風絵が生み出されて、当時の浮世絵スタイルに影響を与えました。
この作品からは、村上が現地の文化に詳しいことが窺え、後の画家たちが台展で台湾の民俗情緒を題材にする際の影響を示しており、芸術性とリアリティを兼ね備えた貴重な作品と言えます。
参照文献
鮫島圭代(2020.10.16)【大人の教養・日本美術の時間】金箔と「黄金の時代」
蕭亦翔(2022)教師.歌人.藝術家─村上無羅及其時代
〈南街殷賑〉郭雪湖
この絵は上の基隆燃放水燈圖より、台湾では皆がよくご存知だと思います。
迪化街は、古くから台北市の商業中心地として栄え、歴史的な建物や伝統的な店舗が並んでいます。ここでは、伝統的な台湾の商品から最新のファッショントレンドまで、幅広い品揃えのショップが立ち並んでおり、ショッピング愛好家にとってまさに楽園です。この前、日本人の友達と一緒に行った時に、雑貨店にすごく可愛いタピオカミルクティー、大同電鍋、台湾黒熊などの刺繍が載ってる財布いっぱい売られています。近年に、日本人の観光客に人気があるスポットとなっています。
この絵は台湾人画家郭雪湖の名作で、1930年代の迪化街の中元節の繁華な様子が描かれています。しかし、全て写生したものじゃなくて、沢山のポイントは画家が想像したものです。例えば、現在の迪化街の建物と比べると、絵のは高くて、人民との比率と現実のは異なっています。そして、看板の量も多くなってきました。
郭雪湖の紹介
郭雪湖、台北の大稻埕で生まれました。小さい頃に父親を亡くし、母親の陳氏によって独力で育てられました。9歳の時に日新公学校に入学し、先生に絵画の才能を見出され、美術の指導を受けるようになりました。学校での期間に、郭雪湖は美術と工芸の才能を示しました。卒業後、台北州立工業学校に進学したが、興味が合わないと感じて、退学し、自宅で絵画を独学しました。16歳の時、母親の案内で蔡雪溪(台湾墨絵画家)に師事し、雪溪画館で学びました。蔡雪溪は多才で名のある職業画家で、彼は郭雪湖に「雪湖」という名付けしてあげ、観音などの神像を描く技術や装裱の方法を教えました。これにより、郭雪湖は芸術への道を歩み始めました。
1927年に初めての台展(台湾美術展覧会)の東洋画部に選ばれた台湾人は、無名の若者である林玉山、陳進、郭雪湖の三人でした。一夜にして名を馳せ、彼らは「台展三少年」として広く知られるようになりました。
絵からローカルカラーを見る
中元節
絵の中の看板から、「中元大賣出」、「中元大減價賣出」と字で当時は中元節のセールが行ってることがわかります。また、右側のお寺は、迪化街で有名な縁結びのお寺です。あのお寺は「霞海城隍廟」という城隍爺神様のお寺だが、皆はよく中の恋愛の神様「月下老人(げっかろうじん)」のために行っています。独身の人が多いですね!(笑)
原住民のトーテム
先程も言ったが、この絵は全て写生ではなく、看板はほとんど画家が図書館の商業年鑑を参考して、描かられたものです。中にもすごく台湾のローカルカラーを入れ、漢服や原住民の絵など、また「蕃」という字は、昔に漢人と日本人が原住民を呼ぶ方だが、貶す言い方なので、現在では使いません。上の「内地」からも、その時の日本だと知って、日本語で「みやげ」が書かれてて、あの時代背景は「台湾での日本統治時代」がわかります。
南国果物
絵から見えるが、バナナ、パイナップルなど、(あの緑のやつはわからない笑)は描かれています。すこく台湾の雰囲気が湧いてきました。最近、バナナとパイナップルを大量に生産し、国際市場に輸出しています。この美味しさと品質の高さが評価してもらって、台湾の農産物は世界中で愛されています。日本でも食べれるらしいですね。
参照文献
潘家欣(2020)【名單之後】 【透視畫境】郭雪湖的〈南街殷賑〉
この絵の中で、まだ説明してないポイントは、多視点描法など、沢山がありますが、次に機会があれば、また皆にシェアーしますね!この前、台湾に関して紹介してる日本語サイトを発見したが、南街殷賑の文章もあります。新旧の融合する街―― 大稻埕
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