見出し画像

教育への警句

□景色
50年ほど前の警句。

所詮、2メートルに足りぬ身長、1世紀に満たぬ寿命、絶えず物質やエネルギーを摂取し、絶えず老廃物を排泄するオープン・システムとしての人間、それを逆さに振るったところで、貴い意味などが転がり出てこない。もし人間に意味があるとすれば、外部との関係にある。

外部のためになる、役に立つ、その代表的なものは職業で、完全雇用時代こそ職業教育を大切にすべきである。あまり文句を言わなければ何かしらの仕事はあるが、そういう仕事は年少の日から志したものでもなく、それへ向かって自分を鍛え上げてきたものでもないので、その仕事に「心ならずも」従事している人間が日本中に殖える。プロであるという静かな自負、それに支えられた謙譲、そういう平凡な大切なものが欠けた社会は、時々刻々、苛立った人間に満ちた社会、住み悪い社会になって行くだろう

□本

「戦後の教育について」『中央公論 11月特大号』
清水幾太郎 中央公論社 1974年

要約
子どもを買い被ると教育は成り立ち難い。もちろん低く見積りすぎても成り立ち難い。どこかは分からないが、子どもに対する評価の最適点のようなものがあり、戦後の教育は子どもを買い被る方向へ最適点から逸れている

戦後の私たちの前へ現れたデューイ。

「旧教育では、重力の中心が子どもの外部にあることになる。重力の中心は、教師のうち、教科書のうち、その他・・・子供自身の直接的な本能および活動以外のどこか・・・今、私たちの教育を訪れている変化は、重力の中心の移動である・・・今度は、子供が太陽になって、教育上の設備は太陽の周囲を回転する」(『学校と社会』)

この著書の出版された1899年では、子供は100%以下の人間と見られ、何事につけても父祖の築いた伝統が権威を持って人間の上に臨み、子供に厳しすぎる躾が行われていた。デューイは星屑のように見えていた子供に太陽の地位を与え、その本能と活動とを信ずることによって、重く固い伝統に挑戦したのだ。

過去、伝統、権威の消えた戦後日本でデューイの言葉は、私たちの教育を最適点から引き離し、辛うじて成り立つ限界点へと導く。権威ある伝統との間の緊張関係が欠けている場合、デューイの言葉は思い思いの方法で解釈される。

成長という自己目的へ向かう子供の邪魔にならぬよう遠巻きするタイプ
「子供は無限の可能性を秘めている」と解釈するタイプ
徹底的な環境主義、思い切った教育万能主義タイプ

3つのタイプを通じると、子供の成長は自己目的で、子供の内部には無限の可能性が含まれ、子供は生物的素質と関係なく教育の力で見事な完成を遂げることになる。これは美しい信仰である。しかし幼児が青年になっていく過程で、この信仰を裏切る多くの不幸な事実が現れる。学習意欲がない、理解しきれない、非行化、受験に合格できない・・、もし美しい信仰を少し捨てればこれらの事実は容易に説明されるが、信仰に全く手を触れないでこの不幸な事実を説明しようとすると、どうしても、どこかに新しい悪者を探さねばならなくなる。そして教育評論家は悪者をいとも簡単に発見する。「社会」である。不幸な事実が存在するのは、人間が悪いからでなく社会が悪いからと言う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?