「存在論」という狂気の形。



ところでマルクスが経済=学として問題にした西欧のロゴスの権力は、すでにローマ帝国およびキリスト教中世において神学と法学という共に西欧世界に固有の〈学〉を生み出していたのであって、経済学や近世自然科学はこの両者の胎内から生い育ってきたものなのである。
神学と法学 ― 結局この二つの学問ほど西欧文明の特徴を要約し、西欧的な〈学〉の理念の本性を端的に示すものはない。もちろんタブー及び神々についての説話は、人類史的に普遍的な事実ではある。史上のいかなる人間社会にも、タブーや掟および神々の物語が存在した。しかしタブーと神話のこの人類史的な普遍性の故にこそ、西欧世界においてのみ、この両者についての〈学〉が成立したことが、逆に意味深長な問題となるのだ。非西欧世界の人間、例えば唐帝国の東洋的官僚制下にある中国の文人たちは、西欧的な〈学〉の理念だけなら彼等なりの文字教養(リテラシー)との類推に基づいて了解することはできたかも知れない。しかし彼等の住む社会の法や神話が、そうした抽象的・体系的な言説の対象となりうるなどということは、彼等には想像を絶する考え方だったに違いないのである。

 以下手短かに言えば、次のようなことになる。神=学なるものが成立するためには、神々という不在の対象は〈学〉の対象として、純粋に抽象的=普遍的なるもの、「存在」という虚構の概念となるほかはない。言い換えれば神学は、それが〈学〉たりうるためには、「存在論」という形をとるほかはない。この場合「存在」は、一切の存在者を抱合する存在として、「世界」と等しいものでもある。他方で法=学の成立は、それが人間たちの様々な歴史的相互行為を〈学〉の抽象的普遍性の見地から取り扱うと主張するかぎりにおいて、歴史に拘束されない「善良なる人間性」の理念を学の前提とする。政務官キケロがフマニタス Humanitas という語を作り出して以来、帝制ローマにおいてストア哲学の通俗化とローマ法の体系化・形式化は、共に手に手を携えて進んだことを想起されたい。そしてこの場合にも「善良なる人間性」は、先の「存在論」によって規定された〈人間存在〉の属性と見なされる。こうして存在論は存在の神的完全性と善性についての教説として現れ、同時にまた「存在」を根拠として神の完全性と人間の善性が説かれることにもなる。そして純粋に抽象的=普遍的なるものとしての「存在」の概念が、実体としては、ヘーゲルが指摘するように「無に等しい」ことは、言うまでもない。

 パルメニデスの言葉と共に、存在論は西欧の権力に特有の暴力行使の在り方と一体になった教説として出現する。存在は到るところに在り、一切の存在者に対し容赦なく己れの支配を貫徹し、己れの存在に対して、いかなる弁明も知らない。「何ゆえに存在があって、無があるのではないのか?」 ― 存在するとは、一つの根源的な暴力に引き渡されてあることなのだ。だからパルメニデスが「在るものは在る」と断言するとき、「存在」とは語りの主体たる彼と彼の言辞(レーマ)を聴取する他者を共に同時にさし貫くような、普遍的な暴力の開示である。言い換えれば彼は見た目は対象としての「存在」について語りながら、その実は、自らの存在を根拠となしつつ、己れが独占する可知性へと他者を還元するような言説の主人に自分を仕立てあげている。これは他者と世界を〈客体〉に引き下げながら自らは絶えず無へと遁走する、〈主体〉の神話の原型にほかならない。

 このような西欧的な〈学〉の理念は、存在と現前を同一視するパルメニデスのテーゼにその発端をもつ。この〈学〉は、それが存在論としてある限り、対象の同一性 Identity を特定することをもって始まり、己れを対象の有する真理の記述として正当化する。真理とは知と対象的事物を一致させる記述の妥当性 Adequatio だということになる。しかしながら〈学〉が記述すべき対象の同一性は、〈学〉が自らに都合よくでっちあげた虚構の他者にすぎず、そこでは他者を鏡面として〈学〉のまことしやかな同一性が貫徹することだけが問題なのだ。対象の真理の記述としての〈学〉は他者の植民地化を必要としており、他者の〈教育〉によってのみ虚構として存続することができる。こうしてパルメニデスの言葉と共に、差異としての差異、他者の他者性は抹消され、後のウェーバーの宗教史学やレヴィ=ストロースの構造人類学におけるような、西欧人だけが他者の可知性を独占しているという神話の成立へ向けて、一つの歴史的可能性が開けることになったのである。


「在る」って本当にあるのか・・・

あるいは「自分が確信する存在」は、果たして本当に「存在」しているのか。

まあ、そんなことでなくても、「神学」とかいう面から見たら、

「阿弥陀様は存在するの」て耶蘇系の人の質問が、肝心の浄土教の信者にしたら、「なんか的外れですは」って なることとかが、結構な「違い」と思う。

「存在する」ってなると、その存在・働きは、固定化され有限化される。
有限だから「存在」って言いえるのだから。「無限」なら「存在」って定義が出来ない。

「存在しない」ってなると、「そもそも一体何なの」

逆に、仏教徒から見たら、「神は実在する」ってなると、浄土教なら「たいそうなことですよね」って言いつつ「そりゃ、存在したら。異教徒を皆殺しって成る可能性も有るわけだ」って思うだろうし。
禅宗なら「それなら俺に見せてみろ」って一喝する可能性も有る。

「あるものは ある」ってテーゼは、限定的には、正しいけど。

それは

離は絶対の一のなる本質をいい、徴はそれが無限にはたらく現象の多様面をいう。本来清浄なり真理の在り方は、離と徴が一つであるが、これについて語れば徴に陥り、沈黙すれば離におちってしまう。

それは、物事が持つ「絶対性・一」の面は、正しいけど、それのもつ「現象の多様性」は、完全に抜け落ちている。


そういえば、華厳経や空海が

重々帝網なるを即身と名づく


というけど、


https://www.koyasan-u.ac.jp/laboratory/pdf/kiyo05/5_murakami.pdf



物事は、「あることはある」ていう風に単独で成立している訳でなく、関係性で「存在しているかもしれない」みたいな面もある。


離は絶対の一のなる本質をいい、徴はそれが無限にはたらく現象の多様面をいう。本来清浄なり真理の在り方は、離と徴が一つであるが、これについて語れば徴に陥り、沈黙すれば離におちってしまう。

てなことで。

あと、東アジアで有力な思想では「易経」の

「書は、言を尽くさず。言は、意を尽くさず。」

その「存在」をいくら、「言葉」「論理」で表しても、それを表現したり確定することなど、できない。

もっというと荘子では

「言葉が一つで一つの意味を確実に表す・・てのでないなら、そりゃ、鶏の鳴き声や風の音と、同じじゃないかね」




まあそんなことを考えてみたりした次第です。


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