「在る」って本当にあるのか・・・
あるいは「自分が確信する存在」は、果たして本当に「存在」しているのか。
まあ、そんなことでなくても、「神学」とかいう面から見たら、
「阿弥陀様は存在するの」て耶蘇系の人の質問が、肝心の浄土教の信者にしたら、「なんか的外れですは」って なることとかが、結構な「違い」と思う。
「存在する」ってなると、その存在・働きは、固定化され有限化される。
有限だから「存在」って言いえるのだから。「無限」なら「存在」って定義が出来ない。
「存在しない」ってなると、「そもそも一体何なの」
逆に、仏教徒から見たら、「神は実在する」ってなると、浄土教なら「たいそうなことですよね」って言いつつ「そりゃ、存在したら。異教徒を皆殺しって成る可能性も有るわけだ」って思うだろうし。
禅宗なら「それなら俺に見せてみろ」って一喝する可能性も有る。
「あるものは ある」ってテーゼは、限定的には、正しいけど。
それは
それは、物事が持つ「絶対性・一」の面は、正しいけど、それのもつ「現象の多様性」は、完全に抜け落ちている。
そういえば、華厳経や空海が
重々帝網なるを即身と名づく
というけど、
https://www.koyasan-u.ac.jp/laboratory/pdf/kiyo05/5_murakami.pdf
物事は、「あることはある」ていう風に単独で成立している訳でなく、関係性で「存在しているかもしれない」みたいな面もある。
てなことで。
あと、東アジアで有力な思想では「易経」の
「書は、言を尽くさず。言は、意を尽くさず。」
その「存在」をいくら、「言葉」「論理」で表しても、それを表現したり確定することなど、できない。
もっというと荘子では
「言葉が一つで一つの意味を確実に表す・・てのでないなら、そりゃ、鶏の鳴き声や風の音と、同じじゃないかね」
まあそんなことを考えてみたりした次第です。