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「天皇」と「通俗道徳」で絶滅した日本人。
人間らしく生きようとしたたくさんの人達の全人格的な努力は、経済的な敗北とともに無力感やシニシズムとなって社会の底辺部に大量に鬱積される。それどころか、貧困と不幸はみずからの罪によるという罪障観さえ形成された。(「民衆道徳とイデオロギー編成」)
— 安丸良夫bot(非公式) (@yoshioyasumaru) October 4, 2021
上記文抜粋
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エゾノー卒業証書に就いて
エゾノーの卒業証書にはこうある「右の者は本校に於いて様々な理不尽に耐え厳しい環境に負けず酪農科学学科の全課程を修了したことを証する」校訓に事あるごとに出てくるし、劇中のサブテーマやネタの一つである「理不尽」これに八軒は堪えて成功をつかむ。ちなみにエゾノーの校訓は「勤労・共同・理不尽」である見事なまでに通俗道徳其の儘である。
「通俗道徳」とは江戸時代後期に市場経済が広がり、人々の生活が不安定になるなか、自己を律するために広まった。「頑張れば成功する」という規範だが、病気にかかって貧しくなったり、働いても十分な収入が得られなかったりすると、「怠け者」とみなされ、経済的だけでなく、道徳的にも敗者とされる。
人間らしく生きようとしたたくさんの人達の全人格的な努力は、経済的な敗北とともに無力感やシニシズムとなって社会の底辺部に大量に鬱積される。それどころか、貧困と不幸はみずからの罪によるという罪障観さえ形成された。(「民衆道徳とイデオロギー編成」)
というもので日本においては明治政府が荒廃農村を復興させた質素、勤勉、倹約、自己責任という通俗道徳を富国強兵、殖産興業、つまり近代化の精神として教化に乗り出し、明治20年を契機とし、今でも建っている二宮銅像がその象徴である。しかし日露戦争で農村は疲弊。山縣は地方改良運動を展開する。
多くの庶民たちは、通俗道徳を自明の前提としてうけとり、必死に努力しながら、それにもかかわらず没落していった。……おそらく多くのばあいは、思想的道徳的にも敗北し、自己形成・自己規律の努力も諦観やニヒリズムやひそかな怨恨へと転化していったと思われる。(「日本の近代化と民衆思想」)ともある。
八軒の友人の駒場君のところもそうであった。必死に努力しながらそれでも没落をしていった。
通俗道徳には、たくさんの人々の真摯な自己鍛練の努力がこめられていたこと、こうした自己鍛練によってある程度の経済的社会的地位を確保しうるということが、この通俗道徳に容易に反駁できない正当性を与えていた。(「日本の近代化と民衆思想」)
こちらは八軒で、オーバーワークでの価値の正当性の担保である、しかし、父親は金持ちであると言うことでさえ、このオーバーワークが覆い尽くすのである。
少数の事例にしろ、…模範村がすさまじい貧困のなかから成立したことは、広汎な民衆にたいして反駁しにくい実例を提示するものであった。こうした実例がくりかえして宣伝されてゆくと、…貧富と幸不幸は通俗道徳的自己規律の有無にかかっているような外見がうまれ、(「民衆道徳とイデオロギー編成」)
これが駒場がすさまじく労働する描写の理由であると思う。
つまり明治二十年代以降に通俗道徳的秩序原理が修身教育や「官製国民運動」によってくりかえしくりかえし宣伝されてゆくと、しだいにそれはかつての鬱勃とした民衆の思想形成の場からひきはなされて、一連の欺瞞的な徳目となってゆく。(「民衆道徳とイデオロギー編成」)
ということである。
駒場家の貧困も、高校の退学も色々な農家の苦境も、すべての社会の問題である。
しかし
たとえば社会体制の全体にかかわるような問題は、もともとこうした通俗道徳では処理できない性質のものなのに、そうした問題までこの虚偽意識(注:「官製国民運動」が作り出したイデオロギー体系)によってゴリ押しに処理されてゆくということである。(「民衆道徳とイデオロギー編成」)
なのである。思えばこのマンガのキャラクターは、労働はするが、しかし戦わない。理不尽を受容うし、しょうがないで処理してしまう。むちゃくちゃな卒業試験の扱いも、学校に対して抗議すらしない。もちろん闘争なんてしないし、農家の苦境は社会的なものであるにも関わらず、稼げないのが悪いと言うところに集約されてしまう。
農業は確かに大変な産業ではあるがすべての大変さに堪えなくてはならないのだろうか?
この漫画では農家は社会とは戦わずに厳しい辛いと言い廃業を仕方ない付け入れていく、本当にそうする必要があったのであろうか?八軒は毎回オーバーワークで倒れるが其れでも努力して成功をつかむが、倒れるまで働く必要があるのかどうか、物語なので仕方がないことだが。
銀の匙はみんな知っているように農家出身の漫画家が描いた物語である。むろん、農業にかかわる者としてこの漫画の中の描写は一部を除いて正確だと思っている。しかし、通俗道徳と無自覚な帝国主義、之は日本において表裏一体なのかもしれないしかしこれが日本の農民思想の限界かと感じる。作品といてはしっかり終われて長びかずよくできた作品だと思っているが、多少そういったところがわだかまりを覚えたものである。
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抜粋終わり
八軒は毎回オーバーワークで倒れるが其れでも努力して成功をつかむが、倒れるまで働く必要があるのかどうか、物語なので仕方がないことだが。
成功をつかむ前に、どんどん過労死していくのが、現代日本。
このマンガのキャラクターは、労働はするが、しかし戦わない。理不尽を受容うし、しょうがないで処理してしまう。むちゃくちゃな卒業試験の扱いも、学校に対して抗議すらしない。もちろん闘争なんてしないし、農家の苦境は社会的なものであるにも関わらず、稼げないのが悪いと言うところに集約されてしまう。
ちょうど「いじめ自殺で追い込まれる子供」と似ていると言える。
通俗道徳は、ネオコンの「能力主義」を受け入れる土台になった。
でもその「通俗道徳」の「西洋版」の「能力主義」は、サンデル教授すら
「こりゃ、実は一種の身分制度だよ。遺伝や幼少時の環境で、容易に超えれない「壁」があるのに、それは「ナイ」とかいうのは、どう考えても間違えだよな。」
みたいなことを言いだしている。
マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』の要約と解説
読書感想 実力も運のうち 能力主義は正義か?
オバマ元大統領の罪深さを突く。マイケル・サンデル著『実力も運のうち 能力主義は正義か?』
そりゃ、そうだ。
三国志の昔に
「あんたらの成功は、あんたらの性向と努力が時勢に合致しただけ」
と喝破した人もいたしね。
まあ、それと
労働はするが、しかし戦わない。理不尽を受容うし、しょうがないで処理してしまう。むちゃくちゃな卒業試験の扱いも、学校に対して抗議すらしない。もちろん闘争なんてしないし、農家の苦境は社会的なものであるにも関わらず、稼げないのが悪いと言うところに集約されてしまう。
は、個々の能力だけは無い。過酷な労働に耐えれる身体・精神を持ち合わせているか否かで、結構決まるし、それは「生まれ」「遺伝」「本当にいい「医療」や「教育者」との邂逅」とかの産物なのですは。
そんな偶然は、普通はあり得ない・・・。
となると、一種の「身分制度」を「過酷な労働が可能な心身」というフィルターで作られているのが、「通俗道徳」だが、それが「見えない」ようにしているのが、エゲツナイのが、「天皇カルト」
駒場家の貧困も、高校の退学も色々な農家の苦境も、すべての社会の問題である。
しかし
たとえば社会体制の全体にかかわるような問題は、もともとこうした通俗道徳では処理できない性質のものなのに、そうした問題までこの虚偽意識(注:「官製国民運動」が作り出したイデオロギー体系)によってゴリ押しに処理されてゆくということである。
そういうこんな「社会体制やシステム」の異常に対しては、奴隷としてふるまうしかないのが、「日本の農民」
その点は、暴動を起こし、なんなら王朝を転覆させ、共産国家まで作ってしまった中国の農民の方が、遥かに真っ当な精神・道徳であるのだ。
天皇が、その「革命」を、アホな農民に躊躇させる・・・
て、
「天皇」と「通俗道徳」が、日本人を根絶やしにする。
てのは間違いない事実である。
天皇の無い 蒼い空を取り戻す