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DXをIT部門に任せてはいけない理由を理解するための“取引費用”の基礎理論

「DX(デジタル・トランスフォーメーション)は経営者自らが取り組むべきテーマであり、IT部門任せにしてはいけない」ということがよく言われます。このような主張は、「DXに本気で取り組むんだ!」という単なる精神論のように受け止められがちですが、決してそうではないということを、“取引費用(transaction cost)”の簡単な理論で解説したいと思います。なお、IT部門はこれまでモード1あるいはSoR(System of Record)と呼ばれる業務効率化のためのシステムを扱ってきたため、モード2あるいはSoE(System of Engagement)と呼ばれる顧客とつながるためのシステムの世界では通用しない、といった主張もよく聞きますが、今回取り上げるのはそのような話ではありません。

ちなみに、今回の話の内容は、こちらの記事で九州大学の篠﨑彰彦先生が書かれているようなことを、私なりに分かりやすく説明してみるものです。

私自身、先生から直接色々と教えていただく機会があり、デジタル化の本質を理論的に理解する上で大変貴重な経験でしたが、より専門的に理解を深めたい方は、ぜひ篠﨑先生の記事や本を読んでいただければと思います。

社会は分業で成り立っており、“取引費用”があらゆる活動のコスト構造に大きく影響する

まず、社会は分業によって成り立っているという前提を押さえておく必要があります。原始時代であればともかく、人間は一人で自給自足の生活をしているわけではありません。生活に必要な全ての物を自分で生産するのではなく、他の人が生産した物を使う、あるいは消費しているはずです。これを社会全体で見ると、少なくとも二人以上の人が分業を行っているということになります。

なぜ人間は自分で全てを生産せず、分業するのでしょうか。それは、作業を分担した上で、それぞれの人が得意な作業に特化した方が、より効率的に多くの物を生産できるからですね。このような分業のメリットを理論的に示したのが、イギリスの経済学者アダム・スミスです。スミスはその著書『国富論』の中で、ピンを一人で作れば一日に1本も作れないかもしれないが、10人で分業すれば一人当たり4800本作れるといったことを紹介しています。

ただし、複数の人で作業を分担する場合、携わっている人同士でやり取りをする必要があります。例えば、誰かが作った部品を他の誰かに渡さないといけませんし、誰かがサボっていたら物が完成しないので、他の誰かがチェックするというのもやり取りです。

社会全体で見ると、他の人が作った物を買うというのも分業ということになりますが、ここでも売る人と買う人のやり取りが必要です。そして、このやり取りには時間的・金銭的なコストがかかります。例えば、洗濯機の調子が悪いので新しい物を買うというケースを想定します。その場合、
① どの洗濯機が良いかを調べるためのコスト
② 欲しい洗濯機がどこで売っているかを調べるコスト
③ 価格の安さやアフターサービスの良さ等を踏まえてどこで買うのが良いかを調べるコスト
④ 店に出向くコスト
⑤ 店員と価格や条件を交渉するコスト
⑥ 新しい洗濯機が届くかどうか確認するコスト
といったものが発生します。このような時間的・金銭的なコストこそ、“取引費用”と呼ばれるものです。

取引費用

この取引費用は、複数の人が関わる限り、どのような分野のどのような活動においても発生するものです。つまり、自給自足ではない現代社会においては、あらゆる経済・社会活動に取引費用が発生しており、この取引費用がこれら活動のコスト構造に大きく影響していることになります。

デジタル化のインパクトは、取引費用が下がることで、あらゆるビジネスのコスト構造を変える点にある

デジタル化のインパクトはこの取引費用を下げた点にある、ということは比較的簡単に理解できるのではないかと思います。例えば、取引費用がかかる行動の代表例である「調べる」ということは、インターネット上にあらゆる情報がアップされ、それを瞬時に検索できることにより、非常に簡単になりました。実際、東京にある私の家の時計は、小学生時代を過ごした徳島県鳴門市の店からオンラインショッピングで買ったものですが、インターネットがない昔であれば、店を探し当てて注文するためにはかなりの金銭的・時間的コスト=取引費用がかかるため、そもそもこの店から買うことはなかったでしょう。

このことをその店の側から見てみると、時計を売るための取引費用が大きく下がったため、従来であればお客さんになり得なかった東京の人から買ってもらえたということになります。反対に、従来であればお客さんとして見込めた近所の人が、東京の店から時計を買うということも起こっているはずです。

このように、あらゆる既存のビジネスは、デジタル化による取引費用の低下がもたらした新たなコスト構造に直面していることになります。eコマースの発展で百貨店の経営が立ちゆかなくなったといったことが、“デジタル・ディスラプション”(=デジタルによる破壊)と呼ばれていますが、取引費用はあらゆるビジネスに関係するからこそ、このディスラプションのおそれと無縁なビジネスはないといえます。そこで、新たなコスト構造に対応したビジネスモデルの転換をしないといけないという話になり、このことこそがDXの本質であるといえます。

なお、デジタル化が取引費用を下げるメカニズムは、デジタルデータの複製・伝達の費用(=限界費用)がほぼゼロであることと大きく関係しますが、この話は改めて別の記事でしたいと思います。

取引費用が下がることで、企業は形そのものを変える必要に迫られる

このように、新たなコスト構想に対応したビジネスモデルの転換の必要性があることは、DXに経営者自らが取り組まなければならない理由の一つではあるのですが、全てではありません。もう一つ、取引費用が下がることで、企業の形そのものを変える必要に迫られることも理由です。

突然ですが、そもそも企業はなぜ存在するのでしょうか。既に書いたように、複数の人が分業して作業した方がより効率的でより多くの生産ができるということと関係はするのですが、それだけでは理由になりません。分業するためには、わざわざ企業というものを作らなくても、携わる個人同士が契約を結んで一緒に作業するという形も可能だからです。

この今では誰も疑問を持たないかもしれないテーマについて、ノーベル経済学賞も受賞した米国の経済学者ロナルド・コースは、1937年に公表した「企業の本質」という論文の中で、取引費用の概念を使って説明しています。

コースの問題意識は、次のようなものでした。経済活動に当たって複数の人がやり取りすることが必要だとしても、それは(先ほどの個人同士が契約を結ぶ形のように)市場を通じて行うことが可能であるにもかかわらず、なぜそうするのではなく、企業という(市場とは正反対にも思われる)統制型の組織が必要なのだろうか。

少し難しいので分かりやすく例を挙げて説明すると、ある人が他の人に資料の作成を依頼する場合、外部発注という形でなく、わざわざその人を採用した上で、上司と部下という関係の下で行わせるのはなぜだろう、ということですね。

そして、コースによれば、外部発注するよりも、部下として採用して資料を作成させる方の取引費用が安ければ、後者を選ぶ=企業という形をとるということになります。他の人に資料作成を依頼する場合、誰に依頼するかを探す費用、依頼の内容や条件を交渉する費用、作業を的確に行っているかをモニターする費用といった取引費用がかかります。上司と部下という関係であれば、確かにこれらの費用を低く抑えることができそうですね。

そして、デジタル化はこのような取引費用も下げることになります。例えば、誰に依頼するかを探す費用は、企業であれば部下にお願いすれば良いのであまり高くないのですが、企業の外の人材を探す場合についても、インターネットによりその金銭的・時間的コストは安くなっていることは実感として分かると思います。実際、クラウドソーシングやギグワーカーといったものがその良い例でしょう。

このように、デジタル化が様々な取引費用を下げた結果として、本当に企業という組織の中に取り込んでおくことが良いのか、それとも外部発注に切り替えた方が良いのかということを改めて考える必要が出てきます。

同時に、デジタル化により、企業という組織の中に取り込むことのコストも低下することが考えられます。特に大企業では、従来は企業の中で情報を共有する、社内調整を行う、社員を管理するといったことの金銭的・時間的コストは、かなり大きかったと考えられます。これら社内の取引費用も、(実際に実現できているかはどうかは別にして)デジタル化により下げることが可能になってきています。

下の図は令和元年版情報通信白書でも使ったものですが、A社がB社あるいはある個人の力を必要としているケースを想定し、①の外部発注する場合と②の(M&Aや雇用を通じて)企業内部に取り込む場合の取引費用を比べ、取引費用が①<②の場合は外部発注を選び、①>②の場合は企業内部に取り込むことを選ぶという判断が必要ということになります。

会社を巡る取引費用の変化

このことについて、冒頭で紹介した篠﨑先生は、市場と企業の境界に「揺らぎ」が生じるため、企業の境界をどこに引くかの判断をしなければならないとしています。

このような判断は、IT部門ではなく、経営者自らでなければできないことは直感的に分かると思います。つまり、DXの本質とは、取引費用の低下への対応であり、企業の形そのものを変える必要に迫られるテーマであるからこそ、経営者自身が取り組まなければならない、ということになるわけです。

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