コムギのいた生活6 -長い1日-
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隣県にある大学病院は我が家からはかなり距離があるのだが、幸いなことに彼女の実家がその近くにあって、診察時間が朝早いこともあり前日に泊めてもらうことにした。
仕事が終わった後に出発したため、着いた頃には彼女の実家は普段であるならばもう寝静まっている時間になってしまった。
起きて待っていてくれた彼女の姉と旦那さんに迎えてもらい家の中に入ると、何度か訪れたことがあり彼女の家族のことが大好きであったコムギは興奮して嬉しそうにしていた。用意してくれた部屋で朝早い診察に備えて早く寝ようとする僕たちを尻目にコムギは興奮したまま出血対策として持参した敷物の上をいつまでも歩き回っていた。
翌朝、彼女の姉に車で病院まで送ってもらった。
よく晴れていた。
コムギを抱いて眩い朝日に目を細めながら車窓に流れる郊外の景色を眺めていると、次第に現実感が薄れていき、まるで第三者の目線にでもなったような錯覚がしてきて何か映画でも見ているような感覚に陥った。
やがて遠目からも大学病院であることが認識できる建物が目に入ってきた。
周囲に高い建物が無いためその姿をずっと視覚に捉えてはいるのだが、木々に覆われた敷地が広大でなかなか辿り着かないのがもどかしいようであり、それと同時にこのまま永遠に着かなければいいのになとも思った。
コムギは陽の光を顔に浴びながら車窓の向こうを見つめていた。
大学病院の駐車場に入り車を降りるとたちまち土と草木の香りに包まれた。
病院は紅葉の木々に囲まれていた。
車から降ろしたカートを組み立てた後、少し早めに到着したこともあり構内を歩いてみることにした。
彼女がコムギを連れ僕がカートを押して、黄色く染まった落ち葉の上を歩く。
コムギがシャリシャリと音を立てながら落ち葉の上を歩いては、慎重に地面の匂いを嗅ぐ。
コムギを連れた旅先でよく見る光景なのだが、今置かれている状況とその光景に付随する過去の情景が相反して混じり合わずに揺れ動き続ける。
敷地内には芝生が敷かれたドッグランもあった。
僕たちはその横に併設されていたベンチに座り診察までの時間を過ごした。
医療ドラマに出てくるような複数階で構成された広大な大学病院を想定していたのだが、その外観に反して診察エリアは1階のみで思いの外広くはなかった。
ただ普段通っている動物病院には無い、無機質な印象を受ける一方で天井の高さとか席間のゆとりだとか木々が映る大きな窓などにどこか清涼感を帯びた厳かさが感じられた。
広めの待合エリアの先にはガラス張りの壁に囲まれた内庭があり、その一片を辿る廊下沿いに幾つかの診察室があった。
受付を済ましてまた増えてしまったコムギの診察カードを複雑な思いで眺めながら内庭に面した一角に腰を降ろした。
朝早いこともあり人も犬も少なく待合エリアは静かだった。
当然のようにコムギは落ち着かなく、傍に置いたカートに乗り込もうとしたり出入り口に向かおうとする。
コムギはカートに乗れば最終的には家に帰れることをちゃんと理解しているので、そこにいたくない時はカートに乗り込もうとする。
落ち着かないコムギを膝の上で強く抱き抱えながら、僕たちは無言で目の前のモニタに映るNHK教育の番組を見ていた。
抑揚のない静かなトーンのNHK教育番組はこの病院の雰囲気や僕たちの今の心情に沿っていた。
目の前のガラス越しの内庭に目を移すと外と同じく立派な木々が生い茂っていた。
そのどれもが黄色に染まっていて沁みるように青い空に映え、窓枠に切り取られたその光景はどこか絵画の中の別世界のような気がして、眺めていると癌治療に大学病院に来たという現実を忘れてしまうような美しさだった。
やがて僕とコムギの名が呼ばれて診察室に入ると若い女性の先生がいた。
「Oと申します。M先生から話は伺っております。」
放射線科のO先生は笑顔が魅力的でとても明朗な方だった。
「どうですか?前回の診察から変わりはありました?」
「実は少し前にけっこうな鼻血が出まして」
僕は先日の出血の話をした。
「そうですか、M先生からのお話を伺ったりCT画像を見る限りではひょっとしたら今日CTを撮ってみてもあまり変化はないかもなと思ってましたが。」
先日診てもらった腫瘍科のM先生からCT画像や細かい状況が共有されているようだった。
「出血があったようでしたら、もしかしたら少し大きくなっているのかもしれないですね。」
O先生は続けて言った。
「CTを撮ってみて少しでも大きくなっていたらどのように治療するか相談しましょう。もし変化がなかったら今日はこのまま帰っていただいて、また1ヶ月後にでも撮影して様子を見ることにしましょう。」
「もし大きくなっていてもオペで取ることは可能なんですか?」
可能な限り放射線の照射は避けたい僕たちは聞いた。
「そうですね、位置や大きさ次第にはなりますがオペで取ってしまうことも可能だと思います。」
顔にメスを入れることに情緒的には抵抗はあったが、僕たちにとっては未知でどこか恐ろしさを感じる放射線照射に比べればまだ受け入れること出来た。
「それではコムギちゃんを預かってCTを撮りますね、結果が分かり次第お呼びします。」
先生と僕たちが立ち上がるとコムギはカートに乗って帰ろうと診察室の入り口に向かう。
「おいで、コムギちゃん、一緒に行こう、おいで!」
先生が明るく言いながらそっと触れると驚いたことにコムギは抵抗することなく、何なら少し嬉しそうに、まるで自分の意志であるかのように先生についていった。
診察室の奥はそのまま手術や研究、入院施設などがあるエリアにつながっていて連れていかれるコムギの姿をずっと見ることができた。
しっかりとした足取りで奥に進んでいくコムギは最後までこちらを振り返らなかった。
待合室に戻ってくると少し人が増えていた。
先ほどまで座っていた席がまだ空いてていたため、また同じ内庭に面した席に座った。
「結局大きさ変わらなくて、様子見になったりするかな。」
僕は幾分軽い口調で彼女に話し掛け、さらに不安を掻き消すように続けた。
「もし、ちょっと大きくなってたとしてもオペで取ってもらえるみたいだしね。」
と僕が言うと彼女が答えた。
「オペするとしたら今日は入院になるのかな。」
「そうかもしれないね。」
待合室には犬たちの姿が増えていた。
皆それぞれの様子で診察を待っている。
全く怖がらずにリラックスして床の上に寝そべっていたり、他の犬が気になって仕方がなかったり、飼い主の腕の中で震えていたり、ずっと鳴いていたり。
そんな犬たちの姿を横目に僕は期待と不安が入り混じった落ち着かない時間を過ごしていた。
何度もトイレに行っては落ち着かせようと大きく息を吸い込み席に戻る。
そんな時ふと、大きな声で看護師さんに僕の名を呼ばれていることに気づいた。
振り返ると、
「コムギちゃん、今からすぐに放射線の照射に入ります!」
と看護師さんが少し慌ててる様子で言った。
すぐには状況が理解ができなくて彼女と顔を見合わせたまま反応ができないでいた。
看護師さんが手順を勘違いしているのかと思い、何とか
「O先生がCT撮影が終わった後に治療方法を相談するという話になっているのですが、、」
と伝えると
「O先生がそう仰っていて、ちょっと待ってくださいね、もう一度連絡してみます」
その慌ただしさにしばらくは僕も彼女も状況に理性が追い付けなかった。
「どういうこと?・・もしかして・・」
そうするうちに胸騒ぎが止まらなくなり膝に力が入らなくなっていく。
・・コムギの腫瘍はひょっとして想像以上に進行しているのか・・。
「先生が診察室で待っていますのでお入りください。」
看護師さんが急ぎ僕たちを診察室に導いた。
診察室に入るとO先生が先程とは違い深刻な表情で急ぐような口ぶりで言った。
「思っていたよりもコムギちゃんの腫瘍が大きくなっていて麻酔が効いている今のうちにすぐ照射する必要があります。」
先生はモニタに映し出された今撮影したCT画像を指し示しながら説明をしてくれた。
「前回のCT画像では4mm程のごく小さなものだったのですが、このようにわずか1ヶ月で右鼻腔を埋め尽くすぐらいの勢いで広がっています。」
もしかしたら検査のエラーで悪性と判断されたのかもしれない、症状は変わらずで今日は様子見で終わるかもしれない、とそんな風に考えいた、もしくはそうであって欲しいと願っていた僕たちにとってその画像に写っているものはあまりにも衝撃が大きすぎた。
やはり先日の鼻血は腫瘍が拡大する際に生じたものであるという、あまりにも現実的なその兆候を僕たちは安楽な願望に目が眩んで見ぬふりをしてしまっていた。
「オペで取ることは可能なんでしょうか?」
放射線照射を避けたかった僕たちは藁にもすがる思いで先生に聞いた。
「コムギちゃんの腫瘍は鼻先の方にも広がっていて、構造的な問題で犬の鼻先にメスを入れることはできなく残念ながらオペでの除去は難しいです。」
彼女の目から涙が溢れていることを視界の端に捉えながら先生の説明に必死に耳を傾けた。
説明を聴くことに集中することでこみ上げてくる感情を何とか抑えていた。
先生は照射の方法の説明を始めた。
「照射なのですが、根治と緩和どちらになさいますか?」
「緩和の場合、週に2回病院にきてもらい3週間で計6回照射します。」
「根治の場合は本日から平日に毎日1回を3週間続けることになるので入院していただくことになります。」
どこかで他人事のように聞いていた根治という言葉がみるみるうちに現実のものになっていく。
「根治は入院も含めて費用はどのくらい掛かるんでしょうか?」
僕たちは何とか現実と向き合い聞いた。
「ちゃんと計算しないとですが、恐らく100万円弱くらいにはなるかと思います。」
「コムギの身体に影響はありますか?」
「照射による副作用が出る可能性はかなり高いです。個体によりけりですが照射後は体調を崩すこともあり、照射箇所周辺の毛は抜けると思います。」「でも、コムギちゃんはまだ若いから根治にも耐えられると思います。」
先生の凛とした言葉に僕と彼女は顔を見合わせて頷きあった。
迷いはなかった。まだ7歳と若いコムギを延命ではなく完治させたかった。
「根治でお願いします。」
「分かりました、それではこちらにサインをいただけますでしょうか。」
目の前に出された根治治療のための放射線照射に対する承諾書にサインをした。覚悟と決意を書き込むように。
「もしお越しいただけるようでしたら、金曜に迎えにきていただいて週末はおうちで過ごしていただき、また月曜に預けにきてもらうこともできますが、どうなさいますか?」
仕事のことが頭を過ぎったが、僕たちにとってコムギに勝るものは無かった。
「そうしたいです。」
先生は少し間を置いて僕たちを優しく包み込むような笑顔で言った。
「麻酔から醒めたコムギちゃんに会っていかれますか?」
脳裏に先程の素直に先生に着いていったコムギの後ろ姿が浮かんだ。
勿論会いたいけれども、会ってしまったら多分涙を堪えきれないであろう僕たちの姿を見てコムギを不安にさせてしまうかもしれない。
「いえ、このままでお願いします。」
「分かりました。それでは受付で入院の手続きをさせてもらいますね。」
入院の手続きを済まし、手付金として1週間分の会計を済まして病院を出た。金曜日の迎えは彼女が行き、月曜の朝に病院に預けるのは僕が行くことにした。
診察後は彼女の姉に車で迎えに来てもらうことになっていたのだが、何となくそんな気分になれなくて少し距離はあるが歩いて彼女の実家まで行くことにした。
人通りの少ない郊外の道を主が不在のカートを押しながら歩く。
朝から変わらず澄み渡るような晴天が続き、冬の柔らかく少し重みのある日差しが僕たちとカートの影を伸ばす。
ふと彼女の目に、飽きるほどに見てきたであろうこの景色が今日はどのように映っているのだろうかとそんなことが気になった。
「あんまり、こっち側から家に帰ってきたことが無いんだよね。」
と不意に僕の気持ちを察したかのように彼女は言葉を発した。そして続けて、
「コムギ、目覚したかな。」
と言った。
「そろそろ起きたかもしれないね。」
僕は病院の方を見つめながら答えた。
1時間近く歩いて彼女の実家に着いた。
せっかく彼女の母が用意してくれた昼食も箸が進まなかった。
朝から何も口にしていないのに食事を取る意欲も失せてしまっていた。
なんともいたたまれない気持ちになり僕は1人部屋を出た。
誰もいない部屋でうずくまっていると、そろそろ自分の実家にいつ正月に帰るかどうかを伝える頃だということに気づいた。
LINEで母に
「コムギの癌の進行が進んでて入院して放射線治療することになったから正月は帰れそうもない」
と送るとしばらくして珍しく母から電話がかかってきた。
「そんなに深刻な症状なの・・・?」
「思っていたよりも進行してて、オペは無理みたいで、これから3週間入院して放射線治療することになった。」
「凄いお金かかるんじゃないの?」
「100万くらい掛かりそうだけど大丈夫。問題ない。」
「うん、あんたたちがそう決めたんならばそれがいいと思うよ。」
母の言葉の後に僕は続けた。
「手術後の副作用が心配だし、それに。」
一瞬、言葉が詰まった。
「それに、いつまで一緒にいられるかわからないから、正月は帰れないな。」
心の奥底に蓋を閉めて隠しておいた、もしかしたらそう遠くはない未来にコムギはいなくなってしまうかもしれないという感情が初めて発露してしまい、僕の声は震えてしまったようだ。
母の声も震えていた。
電話を切ると、留めていたものが溢れ出てくることを止めることができなかった。
コムギがいない家に帰ってきた。
既に夕刻になっていてリビングには西日が差し込み、コムギのソファーもコタツもそのその深い影を床に落としていた。
コムギを我が家に迎えてからはまだ1歳になる前に1度、1日だけ入院で家を空けたことはことがあったが数日に渡って不在というのは初めてのことだった。
大切な要素を欠いだリビングは空虚だった。
ずっと傍に寄り添ったりだとか戯れたりだとか、そんな押し出しの強い存在ではないのだけれども、常に視界の端にはそっと、そして確かに存在していて、その姿は僕たちの日常生活には決して欠かせないものであることを改めて思い知った。
時間の経過も長く感じられた。
台風であろうと自分たちがどんなに体調が悪かろうと決して欠かさなかった散歩に行くこともコムギの食事の準備をする必要もなく手持ち無沙汰で時間だけを浪費していた。
コムギのいない家で食事を取る気になれなくてその日の夜は外に出た。
もしコムギがいたのならば、僕たちの外出を阻止しようとスタンバイするのにすんなり外に出れてしまうことが寂しかった。
結局僕たちは週末まで家で食事を取らなかった。
次の話 -ある覚悟-
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