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コムギのいた生活 5 -癌治療の開始-

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「悪性腫瘍には腺腫とリンパ腫があり治療方法も変わってきます。」
「リンパ腫の場合は抗癌剤治療がメインとなり転移の可能性を疑う必要がありますが、腺腫は転移の可能性は低く放射線治療と切除手術、抗癌剤を状況によって併用して対応します。」
「鼻腔内の場合はリンパ腫の可能性は低いのですが、念のためどちらか検査はしておきましょう。」
上背があり精悍な見た目の腫瘍科のM先生が手書きのメモで図解を交えながら治療法の説明をしてくれていた。
「放射線治療には完全に治すことを目的とする根治治療と、進行を抑えながら少しでも長く生かすことを目的とする緩和治療があります。」
「根治治療は3週間程の間連続して照射をすることで緩和治療より強い効果が出ますが、その代わりに回数が多くなるため体への負担も大きく料金も高くなってきます。」

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コムギの鼻腔内の小さなしこりが悪性腫瘍であることが発覚したため僕たちはM先生の診察を予約して病院を訪れていた。
M先生は外来の腫瘍専門医として毎週火曜日に病院を訪れていて、一見無骨な印象を受けるが正直に物を言う方でどこか僕たちが信頼している歯科専門院のT先生に近しいものを感じていた。
その傍で若いA先生が助手としてM先生の指示に従いこまめに動いていた。
日が暮れてからこの病院を訪れるのは初めてで、明るい日差しを吸い込んでいた大きな窓からはコムギの散歩道でもある通りを走る車のライトが漏れ入ってきて人気の少ない院内を照らしていた。
この2週間でいくつかの病院を訪ねて、そして全く予測していなかった事態に追われ、疲弊しながらもどこか躁状態で落ち着かないでいる気持ちをなんとか抑えつけながら先生の話を追っていた。
「先日から変わりはないですか?」
M先生が一通り治療法の説明を終えてコムギの近況をたずねてきた。
先週末に悪性腫瘍が発覚して病院を訪れた以降もコムギの様子に変化は無かった。
「はい、あれから鼻血も出ていなくて食事も普通に食べていて元気です。」
「そうですか。」
そう言うとM先生は診察台の上で緊張しているコムギの鼻先にアルミ製のボールを当てがった。
鼻から出る息により当てがったボールが白く曇るかで鼻腔が腫瘍で埋まっていないかチェックをしていたようなのだが特に問題は無いようだった。
「正直なところ、今までにこれ程に小さな悪性腫瘍を見たことがなくてコムギちゃんの年齢も考えると検査のエラーの可能性も無くは無いと思ってます。」
エラーの可能性という言葉に僕たちは思わず顔を見合わせた。
「もちろん悪性という結果が出ているからには、放射線治療の準備も進めた方がいいと思うので、エラーの可能性も疑いつつも放射線治療が可能な病院の予約も進め当日のCT検査の結果を見てどうするか決めることにしましょう。」
僕はどうしても期待ばかりが先行してしまう気持ちを抑えながら尋ねた。
「ひょっとしたら悪性では無い可能性もあるんですか?」
「審査結果がエラーであることは殆どないので可能性は限りなく低いのですが、コムギちゃんの年齢としこりのサイズのことを考えると少し疑ってしまいますね。」
先生は少し考え込んだあとに続けた。
「なので悪性腫瘍以外の原因で鼻腔内を傷つけていることも想定して抗生物質を与えて、もしCT検査時にしこりがなくなっていたらしばらく様子を見ることにしましょう。」
「そこで少しでも大きくなっていたら、やはり悪性ということですぐに治療に移りましょう。」
「それほど進行が進んでいなければオペで腫瘍周辺を切り取ってしまう方法もあるのでオペと照射の併用が可能な大学病院を紹介します。」
先生は隣県にある大学病院を紹介してくれた。
「初診の予約には少し時間がかかってしまうので、もう予約をしてしまいましょう。私の方から紹介状は送っておきます。」
「と言うのも大学病院はクリスマス後から冬休みに入ってしまうので、12月の半ばに予約が取れても3週間照射するとなると治療開始が年明けになってしまうかもしれないので少しでも早めに進めておきましょう。」
僕はそんなにすぐに本格的な治療が開始されるとは考えてはいなかったため当惑したが、僅かながらも悪性ではない可能性もあることだし、先生の方針にも納得ができたため紹介してもらった大学病院の予約を取ることにした。
「それは引き続き頑張って治療していきましょう。」


初めての腫瘍科の診察を終えて待合室に戻ると僕たちが最後だったようで院内は静かだった。
会計を終えて病院を出ると風が冷たく思わず身震いをした。
「大学病院で治療か、大変なことになってきたね。」
目の前の道を走る車を目的もなく目で追いながら僕は呟いた。
見慣れた光景を目にしていると大学病院で放射線治療をしなくてはならないことが現実のこととは思えないでいた。
「信じられないね、コムギがこんなことになるなんて。」
そう彼女も答えた。
帰り道を把握しているコムギは早くも家に向かって舵を切り夜の街を駆け始めていた。

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M先生に紹介してもらった大学病院は12月3日に予約を取ることができた。
もし症状が進行していたとしても、年内に治療を開始できることになりひとまずは胸を撫で下ろした。
ただそんな心配も杞憂に終わるかのように相変わらずコムギは元気で普段と変わらなかった。
朝ごはんをたっぷり食べてお決まりのコースを散歩し、昼間はリビングでゆったりと過ごし夜は相変わらず僕のベッドに潜り込んできて眠った。
連日続いていた病院通いもひとまず落ち着き、僕たちの中で段々と非日常感も薄れてきて、以前と全く変わらないコムギの姿を見ていると悪性腫瘍のことや放射線治療のために大学病院に行かなければならないことを、ともするとまたも忘れでもしてしまうような日々だった。
少しづつ冬の装いを強める庭や街の光景に包まれながら、僕たちは今まで通りの生活を送れていることに何の疑念も抱くことなく過ごしていた。

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11月も終わりに近づき、大学病院での診察日を間も無くに控えたある日の朝にコムギが鼻血を出した。



出勤の準備をしていると部屋の片隅で床に染みた血や鼻の穴に付着した血をぺちゃぺちゃと舐めているコムギの存在にに気がついた。
すると聞き覚えのある噴射音とともに赤い飛沫が辺りに散った。
僕はその状況を理解するとその場に座り込んだ。
コムギを抱きしめたが、それに構うことなくコムギは自分の鼻血を舐め続けていた。
「コムギがまた出血した。」
別部屋で同じく出勤の準備をしていた彼女に声をかけるとかけつけた彼女も状況を理解した。
コムギがまたくしゃみをして滴った鼻血を舐める。
「しばらく止まりそうもないね。」
彼女がコムギを抱き抱えて用意してきたタオルで顔を優しく包みながら言った。
彼女は仕事を休み、その日外せない会議があった僕は出勤することにした。
ずっとコムギを抱き抱えたまま表情に不安な色を残す彼女を家に残すのは気が気ではなかった。

血が止まらなかったらどうしようか、やはり診断エラーでは無くて腫瘍は大きくなってるのか、そんな止むこと無く湧き上がってくる不安と、家に残してきた彼女の表情が交錯してとても仕事は手につかなかった。
何度も「血止まった?」と連絡しては「まだ」と返ってくるやりとりを繰り返した。
前回の出血は昼過ぎには止まったのだが今回は夕方近くになっても止まらないようだった。
「まだ帰れないの?」
彼女から連絡が来た。
1人で出血が止まらないコムギを抱きながら不安になっているであろう彼女の姿が脳裏を占めた。
「もう帰ることにする、帰りに血が飛び散ってもいいように床に敷くシートか何か買ってくくね。」
と返信し仕事を切り上げて家路に着いた。

帰りにホームセンターに寄って大きめのブルーシートを3枚買って家に帰ると、陶器のように血の気が引いて強張った表情の彼女が朝見た姿のままにコムギをタオルに包んで抱きしめてながら座り込んでいた。
コムギは彼女にもたれかかりながらぴちゃぴちゃと自分の鼻から垂れる血を舐めていた。
「鼻血の量は減ってきたけどまだ止まらない。」
姿勢は変えずに顔だけこちらに向けて言った。
ずっと強張っていたであろう表情から少し不安の色が薄れたように感じた。
「そうか、止まるといいんだけど、このまま続いたら病院に連れて行こう。」
大学病院での診察は目の前だったが、このままだとその前に血が足らなくなってしまうのではと不安になった。
僕は買ってきたブルーシートをリビングと僕の部屋に敷いた。
ブルーシートの上に置くと警戒心の強いコムギは恐る恐る足元を確かめながらゆっくりと歩き座り込んだ。
歩くとザッ、ザッと不快な音をたててまるで事故でもあったかのようなブルーシートが敷き詰められた部屋の様相と腫瘍への不安が相まって昨日まではそう信じ込んでいた平穏な日々が瓦解していき暗い底に落ち込んでいくような錯覚を覚えた。
呆けたように2人ともブルーシートの上に屈み込み同じくブルーシートにうずくまっているコムギを見つめていた。
夜遅くになってコムギの鼻血は止まった。
また何時出血するか分からないためブルーシートはそのままにしておいた。
それまでどこか心の中では避けていた大学病院での診察だったが待ち遠しいものになっていた。

挿絵5-5



次の話 -長い一日-

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