コムギのいた生活10 -歓喜-
年が明けて最初の火曜日、抗癌剤の投与を開始するために腫瘍科のM先生の診察を受けに病院に行った。
抗生剤が効いたのか、コムギはもう痛み止めを与えなくてもカリカリご飯を食べることが出来ることができるようになっていた。
M先生はアシスタントのA先生から年末に診察を受けたカルテを受け取り真剣な面持ちで確認をしながら、
「ご飯を食べれるようになって良かったです。抗癌剤の影響でご飯を食べられなくなることもあるので、まずはご飯を食べられることがとても大切になります。」
先生はカルテから目を移すことなく言った。
「それでは抗癌剤の処方が可能かどうか、好中球の値を調べる血液検査をしましょう。」
真剣な表情を崩すことなくM先生が言うや否や、僕は抵抗するコムギの体を抱き抱え、彼女がコムギの顔を抱き固定をして針を刺すところを見せないようにし、A先生が手早く採血に移る。
「コムギちゃんいい子だねー。」
「コムギえらいねー。」
「コムギ大丈夫だよー、もう終わるよ。」
コムギの悲鳴を掻き消す勢いで3人で続け様に応援を浴びせながらの共闘体制で採血を無事終わらせた。
血液検査の結果はすぐに出た。
「現状の数値は全く問題ありませんので、抗癌剤を開始しましょう。」
M先生から好中球の数値が記載された紙を受け取った。
確認をすると上限値と下限値のちょうど真ん中ほどの数値が記載されていた。
「体重から算出した適切な量をお渡しますので明日から2日に1回与えるようにしてください。あと、危険ですので錠剤を取り出す際は直接手に触れないように気をつけてください。」
そんな恐ろしいものをコムギに与えなければならないのか。
抗癌剤投与に前向きになっていたのだが、先生のその言葉を聞いて現実に返り周囲に気づかれないように溜め息をついた。
でも、それでもやはり、進行を少しでも止めるためには飲ませなけれならないのだ、と心の中で呟いた。
「まずは2週間分お渡ししますので、また2週間後に血液検査をして好中球の値を確認しましょう。」
診察が終わり会計時に2週間分の抗癌剤と直接手に触れないためのゴム手袋を一緒に渡された。
次回の診察の予約をして家路に着いた。
翌朝から抗癌剤の投与を始めた。
ご飯を待つコムギを尻目に、抗癌剤に直接触れないように手袋をしてシートから慎重に取り出す。
その強い刺激性の故か、他の錠剤と違ってシートの密閉度が高く剥がし辛くなっていて、ましてや手袋をした手では取り出すのに苦労をした。
なんとか取り出した錠剤をあらかじめ用意しておいた団子状のチーズにはめこみ包む。
錠剤は思いのほか強い臭いがした。チーズで包むことで僕たちは臭いは感じなくなったが、嗅覚の鋭い犬にはどう感じられるかは分からなかった。
中身の入っていないダミーのチーズ団子もいくつかカリカリの中に一緒に入れて、コムギの前にそっと置いた。
犬は人間の僅かな感情の揺れを鋭敏に嗅ぎ取る生き物で、ただでさえ神経質なコムギに警戒されないように可能な限り平静を装った。
ふたりで距離をとってじっと見守る中、コムギは少し臭いを嗅いだ後に普通に食べ出してあっという間に器の中身は無くなった。
「やった!」思わずふたりで声を出してしまった。
摂取後も特にコムギの食欲に変化は無く下痢や嘔吐もなかった。
その後、2週間に渡って何も問題も無く摂取し続けた。
摂取の日を間違えないように、抗癌剤を入れている白い紙袋に接種日の日付を書き、与えた後はチェックを入れるようにした。
キッチンの棚の上に置いた日付とチェックが入った紙袋はやがて見慣れた日常の光景となった。
この頃から目に見える形でコムギに放射線照射の副反応が出始めていた。
右目の目頭に目脂のようなものが溜まり、その辺りの毛が浮き出して少しづつ剥がれていった。
やがて毛は右目頭から頬を抜けマズルの先まで抜けてしまった。
毛が抜けた箇所からは黒い地肌が見えた。
「毛、また生えてくるかな?」
ある日の昼下がり、その膝に顎をゆだねるコムギを撫でながら彼女が言った。
「O先生は白い毛が生えてくるって言ってたね、でもまあ頑張ってくれた証だしこのままでもいいんじゃない。」
不思議なもので、最新のコムギの姿が常に上書きされて過去の姿はすぐに忘れてしまう。
今のこの目の前のコムギがいつも一番可愛くて、コムギという存在を包む全てが愛おしい。
「そうだね。」
彼女は毛が抜けて剥き出しになっている地肌をそっと優しく撫でて言った。
コムギは気持ちよさそうに目を瞑った。
初めての抗癌剤を処方されてから2週間が経ち、再び腫瘍科のM先生の診察を受けていた。
恒例となったアシスタントのA先生と協力しての羽交締め強行血液採取を終えて血液検査の結果を受けていた。
「少し好中球の値が下がってますね。」
S先生が資料に目を落としたまま言った。
「ただ、まだ許容範囲内ですので、もう1週間このままの量で与えてみてまた数値を見てましょうか。」
確かに数値は抗癌剤を与える前より下がっていた。その事実に少なからずショックを受けたものの下限の危険水域からはまだ余裕のある数値であり、コムギの体調にも特に異変が無かったため、もう1週間同じ量を与えてみることにした。
1週間後の血液検査でもまた少し下がっていた。
量を減らしてみることも先生から提案されたが、まだ変わらず危険な程の数値では無いことと、少しでも腫瘍への効果があって欲しいとの思いから、もう1週間同じ量のままで様子をみる事にした。
その1週間後、すっかり慣れてきたA先生との協力血液採血を手早く終えて出てきた検査結果の数値を見た先生が少し難しい顔つきで言った。
「好中球の値がかなり危険な域まで下がってきています。」
先生は難しい顔のままこちらを向いた。
「これ以上はこの量での処方はおすすめはできません。」
数値は許容範囲の下限ギリギリの数値まで落ちていた。
今の量で投与を続けていたらいつかはここまで落ち込むかもしれないとは思っていたが、急激な下がり具合に不安を覚え先生に確認をした。
「コムギは抗癌剤が体に合わないんでしょうか?」
「その可能性も否定はできないのですが、量を下げることで好中球の値が回復すれば服用を続けることもできますので一旦下げましょう。」
当初の体格から割り出された適正量からは減らして抗癌剤を与えることにした。
”もしかしたら抗癌剤が体に合わないのかもしれない”。
この可能性は僕たちを激しく不安にさせて落ち込ませた。
もし抗癌剤を飲ませることが出来なければ、放射線照射の効果が出なかったり再発してしまった場合に進行を抑えることが出来ない。
不安なまま1週間を過ごした後に血液検査をおこなった。
祈るような気持ちで結果を待った。
「好中球の数値がだいぶ戻ってきてますね、薬自体が駄目なわけでは無かったのでこの量で服用を続けましょう。」
見せてもらった生中球の数値は初めて服用した2週間後くらいの値に戻っていた。
「よかったー。」
ふたりで声をあげて喜んだ。
「大学病院での検査も間も無くですよね、その結果も踏まえてまた今後の治療の検討をしましょう。」
僕たちの喜びが落ち着くのを待って先生が言った。
放射線治療の経過検査が迫っていた。
間もなく放射線治療の結果が出る。
でも、例え治療の効果が少なかったとしても抗癌剤は与えることはできるという安心感が少しあった。
大学病院での検査後にそのままS先生の診察を受けることができるように予約を取った。
「数値が戻って本当よかった。」
病院を出るなり白い息を弾ませながら彼女が言った。
「膝がガクガクしてたよ、再検査も近いし山場ばっかりだね。」
安堵に包まれながら僕も息を弾ませて答えた。
「もうずっとくしゃみも鼻血も出てないし、小さくなってくれてたら嬉しいんだけどな。」
彼女の言う通り最近のコムギはくしゃみをしたり鼻汁に血が混じっていたりするようなことが無くなっていた。
「そうだね、でも、結果が分かるまで余計なことを考えないようにしよう。ひとまずは抗癌剤を続けることができることを喜ぼう。」
最後は自分自身に言い聞かせるように言った。
例のごとくコムギはもう家に向かって歩き出していた。
僕たちがコムギの治療のことで頭がいっぱいになっていたため、その動向に関心が向いていなかったコロナがこの頃からその猛威を奮い始めていた。
出社が制限されて以前から在宅での仕事が多かった僕ではあったが完全なリモートワークに移行していた。
今後の社会の事を考えると不安を憶える事もあったが、コムギのそばでいつでも様子を見ることができることをありがたく思った。
コムギとずっと一緒だった。
リビングのテーブルで仕事をしていると僕の脚にコムギはよく寄りかかってきた。
入院前より甘えてくることが多くなったように思う。
そんなコムギを左手で撫でつつPCと向き合っていた。
まだ寒い日々が続いていたが、時折暖かな優しい日差しがリビングの窓から入り込むようになった。
コムギとまだ桜を見れる、そう思った。
2月の終わりに僕たちは仕事を休み放射線治療の経過検査のため大学病院を訪れていた。
前回訪れた時はまだ黄色い葉が残っていた院内の木々はその全てが枯れ木に姿を変えていた。
3ヶ月ぶりに会うO先生は変わらず朗らかだった。
コムギの顔にその顔を近づけながら優しい笑顔で言った。
「コムギちゃん、だいぶ毛が抜けちゃいましたね、でももううっすらと白い毛が生え始めてますね。」
放射線照射の副作用で目の下からマズルの先まで毛が抜けてしまったコムギではあったが、僅かではあったが産毛のような白い毛が生え出していた。
「M先生から話を聞いていて抗癌剤ちゃんと飲めているようですね、よかったです。その後は体調どうですか?」
コムギを優しく撫でてくれたあと、先生は振り向いた。
「放射線治療後しばらくは元気もなくてご飯も食べられなかったりしたんですが、今は元気ですね。最近は鼻血もくしゃみも出てないです。」
「そうですかー、ひょっとしたら腫瘍も小さくなってるかもしれないですね。」
先生は笑顔で言った。
「では、CT撮影をしますのでコムギちゃんをお預かりしますね。」
いつものように後を付いて行くかのようにO先生に連れられコムギは治療室へと消えていった。
僕たちはすっかり定席となった感のある内庭が見える大きな窓の前の席に腰を下ろした。
すっかり冬景色に変わった内窓に映る景色を眺めながら、入院のために病院に置いていかなければならなかった日々を思い出していた。
窓の向こうが秋景色だったこの座席で帰るためにカートに乗ろうとしていたコムギ。膝の上に乗せて強く抱きしめるとクンと鳴いたコムギ。
目の前の大きなモニタからは変わらず静かなトーンのEテレの番組が流れていた。
何も考えずに座して結果を待とうとはするのだが、やはりじっとしていられなかった。
期待と不安が何度も交差して落ち着かなく何度もトイレに行く。
何回目かのトレイから戻ってきて席に座ると後ろから声が聞こえた。
「コムギちゃんの腫瘍、すごく小さくなってますよ!」
振り返るとO先生が満面の笑みで立っていた。
先生は待ちきれないといった様子でわざわざ僕たちの元まできて伝えてくれた。
僕たちはお互い顔を見合わせた後に声を上げて喜んだ。
嬉しさのあまり溢れ出る涙を抑えることができなかった。
悪性腫瘍が発覚して以降、悲しみの涙は何度も流したが嬉し涙は初めてだった。
体を震わせる僕たちを笑顔で見守るO先生に導かれ診察室に入った。
見せてくれたCT画像には糸くずのように僅かに残された小さな腫瘍が映し出されていた。
「最初に撮影した4mm程度の腫瘍よりも小さくなってますね。」
「ここからさらに小さくなって完全に無くなるかもしれないですし、仮にこのままでも抗癌剤によって進行を抑えることもできると思います。」
「このまま薬を飲みつつ様子を見て半年後にCT検査をしましょう。」
先生が笑顔で言った。
「もうすぐコムギちゃんも目覚めると思いますので待合室にお連れしますね。」
僕たちも満面の笑顔で答えた。
放射線の照射が効いて腫瘍はかなり小さくなり、さらに抗癌剤の服用を続けることもできていて全てが順調に進んでいた。
コムギとまだまだずっと一緒にいることができる。
僕たちは込み上げてきて止まない幸福感に包まれながら病院を後にした。
昼過ぎの冬空を覆う少し厚めの雲が鈍く輝き、コムギと歩く彼女とその後ろでカートを押す僕を優しく照らす。
僕は空を見上げた。
何ともない冬空なのだけれど、少し碧がかった空と暗めな雲と鈍い光のコントラストがとても美しく感じられた。
僕はその彩りの中に何か意味や示唆が現れているのではないかという思いにとらわれてしまってしばらく見つめ続けていた。
僕が足を止めていたことで互いの間に距離ができたことに気が付いたコムギが足を止めこちらを振り返っていた。
「ごめん、ごめん」
駆け足でコムギに寄ると、それを確認したコムギはまた前を向き歩き出した。