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コムギのいた生活 8 -希望-

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放射線治療を再開して数日が経ったある日の昼過ぎに大学病院から連絡があった。
出社していた僕は先日お願いしたCT撮影の結果の連絡だろうと思い、会社の外に出て少し震えてしまう手を抑えながら電話を受けた。
O先生からだった。
「先日お話ししたCT撮影の結果なんですが、右鼻腔内全体が白く濁ってしまっていて現状の把握が出来ませんでした。」
「それは腫瘍が進行してしまっているということですか・・?」
先生は間髪入れずに答えた。
「白く混濁している部分は鼻水かとは思っているんですが、現時点では判断が難しいのが正直な所ですね。」
不安を隠しきれない僕に先生は続けた。
「造影剤を使用して撮影をすれば明確に腫瘍の形が分かるのですが、体への負担もあるので何回も使用することができなくて、照射の最終日に使用して撮影しようと思っています。」
「・・そうですか、わかりました。連絡いただきありがとうございました。」
「ご期待に添えなくて申し訳ないです。それでは金曜日のお迎えをお待ちしてますね。」
電話を切ると、放射線照射中にも関わらずその進行を止めることができていなくて悪化の一途を辿っているのでは無いかという不安に駆られた。
その後も暗い予感の行き着く先ばかり想像してしまい仕事は手につかなかった。


夕食は外で済ますことにした。
外食はコムギのいない家での食事に耐えられない僕たちの恒例となっていた。
彼女も出社をしていたので、家からは離れた普段は行かない繁華街で待ち合わせをして適当に居酒屋に入った。
店内は会社帰りの人たちで溢れかえっていた。
賑やかな喧騒に囲まれながら僕たちはビールが注がれたジョッキをそっと傾けていた。
僕はO先生からの電話の内容を彼女に伝えた。
白く濁っているのは進行が止まらない腫瘍では無くて鼻水らしい、と可能な限り自身の不安や気落ちの感情が伝わらないように言葉を選んだのだが、やはり僕の抱いていた不安が彼女に伝播してしまっていたのだろう。
彼女も同じ不安を抱いてしまい下を向いてしまった。
2人の声が震え出していった。
僕は彼女にはまだ伝えることが出来ていなかった、コムギの入院以来ずっと考え続けていたことについて触れた。
その言葉を初めて音として口に出した瞬間、先日大学病院で先生に連れていかれるコムギの姿やソファーで寛いでいる姿、家にやって来て間もない幼い頃の姿までもが脳裏に浮かび、僕はほとばしるものを抑えることが出来なかった。
「もし、・・もし、進行が止まらないとしたら、・・安楽死も・・考えなくちゃね。」
言いながら涙が止まらなくなってしまった。
彼女も泣き出してしまい、もう言葉にならなかった。
端から見たらまるで別れ話でもしてるように映ったであろう。
僕たちは賑やかな店内でひと目も憚らず泣き続けた。

挿絵8-1





その後、退院と入院を重ねて3週間に渡る放射線治療の最終日を迎えた。
その日は期せずしてクリスマスイブだった。
キリスト教を信じているわけでも無く、何ならば毎日神社にお参りに行っているのに都合がいいかもしれないけれど、これは神の思し召しでもしかしたら良い結果が待っているかもしれない、と期待してしまう自分を否定はできなかった。
最終日は火曜日だったため前日の月曜は入院をしないでそのまま連れて帰り、当日にふたりともに仕事を休んで病院に連れて来ていた。
長い治療を終えたコムギは一見したところ以前と変わらないようであったが、よく見ると右目頭に目脂が溜まっていてその周辺部の毛が少し薄くなっていた。
診察室でO先生がモニタに映った造影剤を使用したCT画像の説明をしてくれていた。
「やはり白く濁っていた部分の多くは鼻水で腫瘍の進行は進んではいなく、脳部への圧迫や周辺組織へのダメージもありませんでした。」
「おそらくコムギちゃんに照射の効果が出てくるのはこの先になるかと思いますので2ヶ月後にまたCTを取って経過を見てみましょう。」
治療の効果が早くも出てきていて腫瘍が収縮しています、なんて奇跡的な経過を聞ければと少しは期待をしていたが、僅か1ヶ月の間に恐ろしい勢いで増殖していた腫瘍の進行が止まり懸念していた脳部への圧迫などはなく、この先の照射の効果への希望もあり、ひとまずは胸を撫で下ろした。先生が続けた。
「ただ、結果が分かるまで手をこまねいているのだけでは無く、M先生とも相談して抗癌剤の処方も考えましょう。」
近所の病院に腫瘍科のM先生が外来で訪れるのも火曜で大学病院での放射線照射の最終日も火曜だったこともあり、この日の午後に予約を取っていた。
「この後、M先生の診察も受けるのでそこで抗癌剤の相談もしたいと思います。」
とO先生に伝えた。
「それは丁度いいですね。私の方からもM先生に状況は説明しておきます。」
そしてO先生がコムギに微笑みかけながら
「コムギちゃん、3週間頑張ったね!」
と言うとコムギは先生の方を向いて嬉しそうにしていた。
「本当にここで皆さんに可愛がっていただけたようで、安心して預けることができました。ありがとうございました。」
と感謝を伝えた。
「いえいえ、コムギちゃんずっといい子だったので。」
先生はコムギに向けていた視線を僕たちに移して笑顔のまま言った。
「それではまた2ヶ月後に。」


O先生に別れを告げて、受付で残りの治療費も支払い大学病院の外に出た。


冬の昼下がりの陽光を強く受けた雲が黄金色に淀みながら空に広がっていた。
紅葉も殆ど終わり、冬の景色へと様変わりしていた大学の構内を歩いていた。
シャリシャリと音を立てて枯れた落ち葉の上を歩くコムギに向かって、散歩用のバックにしまってあったお気に入りのボールを取り出して投げてみた。
コムギは即座に反応して転がってきたボールを咥えて歩き、すぐに自分の足元に投げ落として前傾姿勢になり「もっと投げて」と言ってきた。
決してボールを僕のところには持ってきてはくれないコムギに歩み寄り、足元に置かれているボールをあまり走らせないようにそっと軽く蹴った。
コムギの動きは少し緩慢な気がしたけれども楽しそうにボールを追いかける。
その様子を見ていた彼女が写真を撮り出した。彼女も楽しそうだった。
術後間もないこともあり、少しだけボールで遊んで大学病院を後にした。
狭いを歩道をカートを押しながら駅に向かって歩いていると大きなトラックが僕たちのすぐ脇を通り抜けた。
カートとコムギに掠りそうなくらい近くだったので驚きながら、
「せっかく治療を終えたのに、ここでコムギが事故ったら100万円が無駄になっちゃうね。」
そんな冗談を言ってふたりで笑いあった。

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やっと家に帰れると思っていたコムギには災難だろうけど、その足で腫瘍科のM先生に今後の治療の相談をするため家の近くの病院に寄った。
「3週間の治療お疲れ様でした。大変だったでしょう。」
診察室で待っていたM先生がドアを開けて僕たちを迎え入れてくれた。
「O先生から話は聞いています。私も1ヶ月であれ程までに大きくなるとは正直思っていませんでした。」
僕たちが診察室に入り腰を下ろすといつもは冷静なM先生が驚いたように言った。
「結果論ではありますが、早めに治療を開始できたことは本当に良かったと思います。効果については個体差はありますが、この後に出てくると思いますので経過を見守りましょう。」
確かにM先生の言う通りだった。
もし手続きが遅れて放射線治療の開始が来月にずれ込んでいたら、腫瘍が今以上に進行して脳部に損傷を与えてしまったかもしれない。
「はい、今となっては大学病院が冬季休暇に入る前に治療が出来て幸運だったと思います。それとあと、O先生とも話したのですが、抗癌剤の投与も始めたいと思っているのですが、いつくらいから始めても良いものなのでしょうか?」
現状では腫瘍の進行は止まっているものの、この先にどのような治療の効果が出るかはまだ分からなく、何もしないで経過を見守ることに不安があった。
「そうですね、この後の血液検査の結果次第ですが、私としては年明けからの開始を考えています。」
「副作用ってどんな形であらわれるんでしょうか?」
「コムギちゃんに与える抗癌剤は分子標的剤と言って他の抗癌剤のように正常な組織まで破壊するようなことはなく、癌細胞のみを狙って攻撃するため体への負担は少なくなっています。ただ、投与が開始されてからまだ歴史が浅いため効果や副作用については未知な部分があるのが正直なところです。」
先生の説明を聞きながら僕は聴き馴染みの無い分子標的剤という言葉を口には出さずに反芻してみた。未知な故に、その恐ろしさの反面でどこか期待のような感情がそっと湧いた。
先生は説明を続けた。
「一般的には副作用はあまり強く出ないのですが、白血球の一種の好中球が減少することにより、免疫力が低下してしまったり食欲不振や下痢の症状が出ることがあります。凡そ半分くらいの子にその反応が出てしまい、あまり強く出てしまう場合は投与を中止することになります。」
一般的に抗癌剤と聞いて想起される副作用と比較するとその症状に軽微な印象を受け安心はしたものの、もしコムギとは合わなくて投与を続けられなくなったらと考えると恐ろしかった。
「なので、毎回、血液検査で白血球の数値を確認しながら与える量をコントロールしていくことになります。」
M先生が一通り説明を終えるとアシスタントのA先生が採血の準備に取り掛かった。
抵抗はするもののコムギの表情にはどこか諦観の念が浮かんでいた。



採血の結果、問題が無かったため年明けの最初の火曜日に予約をして病院を出た。
長い1日が終わろうとしていた。
まだ夕刻までに時間があったが日は既に傾き始めていて、身を刺すような寒さに震えながらも僕は暖かい気持ちに包まれていた。
この先どうなるかはまだ分からないけれども、でも、またコムギと暮らす日々に戻ることができる。
「コムギ、家に帰ろう。」 
と言うや否やコムギは僕を振り返ることもなく我が家の方へ向かっていった。
僕はその以前は当たり前だった幸せを、ただ噛み締めていた。

挿絵8-3



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