コムギのいた生活7 -ある覚悟-
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入院の翌日に大学病院から電話があった。
コムギの身に何か起きたのではないのかと嫌な予感が過ってしまい、すぐには出ることは出来なかったが、意を決して出るとO先生からだった。
「コムギちゃんの2回目の照射も終わりました。とても元気ですよ。」
僕たちが心配していることを案じて連絡してくれたのであろう。
「連絡ありがとうございます!コムギ、ご飯ちゃんと食べてますか?寝れてますか?」
嬉しくて思わず声を上ずらせながら矢継ぎ早に質問を投げかけてしまった。
「はい、ご飯もちゃんと食べて、散歩も行って、ゆっくり寝てますよ。」
あの神経質なコムギが病院で穏やかに過ごしていると聞き、驚きながらも心の底から安心するのと同時に、どこか肩透かしのようなものも感じて僕が知らないコムギの一面がまだまだあるのだなと思い知った。
この頃になって僕は真剣に鼻腔内腫瘍について調べるようになっていた。
勿論最初にその言葉を知った際も調べはしたのだが、悪性であって欲しくない、あるはずがないという思いからかどうしても無意識理に核心を避けてしまっていた。
調べていくうちに残酷な現実を知っていった。
治療をしても2年生存できる確率が決して高くはないことや、最後を迎える際の痛々しいその姿を。
鼻腔内に出来た腫瘍は進行するとやがてマズルや顔を歪に変形させ、脳を圧迫し眼球をも押し出してしまう。
コムギにそんな最後が訪れるのかもしれない、そう思うと逃れがたい絶望に包まれそうになり必死にその影を振り払う。
なんとしても完治させたかった。放射線で腫瘍をやっつけて抗がん剤で再発を抑えることができればまだまだいくらでも長く生きられるはずだ。
コムギは若いし、根治治療にも耐えてくれるはずだと祈りにも近い気持ちで完治を願った。
そして同時にあることを覚悟しなければいいけないということも自覚し始めた。
安楽死。
夜も更けたコムギのいない家。
僕はパソコンの前で暗然としていた。
コムギを迎えに行く週末がやってきた。
コムギが入院してからは沈みがちな我が家ではあったが、その前日から高揚感に包まれていた。
彼女はいそいそと朝早くカートを持って大学病院に向かい、僕は仕事に出かけた。
不安であろうと期待であろうとコムギのことについての彼女からの連絡を待つ間は仕事が手につかないことに何も変わりはなかった。
しばらくすると彼女からLINEがあった。
出迎えに喜ぶコムギの動画が送られてきていた。
僕は音量を小さめにして何度も何度も甲高い声をあげて喜ぶコムギの動画を再生した。
帰りに久しぶりに家で食事をするために弁当を買って、はやる気持ちを抑えながら家に帰り玄関のドアを開けるとコムギが玄関まで迎えにきててくれた。
僕の姿を認めるとすぐに早くこっちにおいでよとばかりにリビングに引き返す。
当たり前のように見慣れていたコムギの姿だった。
僕は追いかけてコムギをつかまえて抱きあげて「おかえり」と囁いた。
久しぶりに家でご飯を食べた。
テレビの画面からは明るい笑い声が溢れ出て、ビールの缶を開ける音も弾み、僕たちは笑顔に包まれていた。
コムギはソファーでぼおっとしていたが、その姿が視界にちゃんと存在してくれているだけで昨日までとは見える情景がまるで違った。
ただ、コムギは少し元気が無かった。
彼女が聞いたところによると、連日の麻酔の影響で体に倦怠感などの症状が出てるかもしれないとのことだった。
あらためてコムギは大変な手術の途中であることを思い知らされた。
夜はコムギと一緒に寝た。
ベッドの中に潜り込んできたコムギは温かった。
翌日、ふたりで散歩に連れて行き、昼も夜も家でご飯を食べて、夜はコムギと一緒に寝る。
今までと同じで、そしてとても大切で愛おしい時間を過ごした。
幸せな週末はあっという間に過ぎてしまう。
日曜の夜、自分のソファーで穏やかに眠っている姿を見つめながらコムギは明日からまた大好きなこの家を離れなければならないことを知らないで寝てるのだと思うと、その寝顔からいつまでも目を離すことができなかった。
天気がいいことだけが、塞ぎ込みがちな気持ちに陥っていた朝の唯一の慰めだった。
これが冷たい雨ではとてもやりきれなかった。
月曜の朝早く、左手でカートを押して右手でコムギのリードを握りながら駅に向かっていた。
いつもの朝散歩と違ってカートと一緒であることにコムギは何らかの異変を感じ取っているであろう。嫌いなことに関しては異様に勘の鋭いコムギは先日の入院と結び付けたのかもしれない。
僕の暗い気持ちも投影してしまっているのかコムギの足取りがいつもより重いように感じた。
駅に近づくにつれて、目の前の曲がり道は全て家の方向に舵を切ろうとする。
そんなコムギを宥めながら駅につきカートに乗せようとするのだがやはり乗ることを嫌がった。
普段であるならば留守番をしなくてすむこと、遠く離れたところから家へ帰ることができることから喜んでカートに乗るコムギなのに。
乗ろうとしていた電車の到来に焦りながらも、大好きなボーロで釣りつつ半ば強引にコムギをカートに押し入れて何とか電車に乗ることができた。
満員電車を避けるためにかなり早めに家を出てきていたのだが車内は思っていたよりも人が多くいて、占有面積を奪いがちなカートといることが憚られた。
ありがたいことにコムギは一旦カートの中に入ると一切声をあげることはないので、犬を電車に乗せてる人がいるといったようなの怪訝な目で見られるような心配は無かった。
カートの外見もヒトのベビーカーに似ていて外からは中が見えないため、まさかこの中に癌治療をしている柴犬が乗っているとは誰も思わないだろうなと、電車に揺られながら思った。
新宿駅に着いて乗り換えのために外に出る。
途中でコーヒーを買い飲みながら出勤する人の流れに逆らうように乗り換えの駅に向かって歩く。
隣県の郊外に向かう電車は人がまばらだった。
幾分和らいだ心持ちでシートの端に座り、片手でコムギのカートをそっと撫でながら車窓に映し出される光景を眺めていた。
少しづつ密度が減っていく建物群に反するように増えていく緑。
朝出てきた時よりは車窓から差し込まれる日差しに温かみが増しているように感じた。
冬の朝の日差しを浴びながら、まさか愛犬の闘病のために遠く電車を乗り継いで大学病院に連れて行くなんてコムギを飼う前には思いも寄らなかったな、いや、わずか半年前でもそんなこと思いやしなかったな、と今置かれている現実が起きたら全て忘れ去ることができる夢であったならばとそんな子供じみた報われない想いに駆られた。
電車は郊外のターミナル駅に着き更に電車を乗り継ぐ。
馴染みの無い街の駅前のビル群を抜けると先日目にした周囲を木々に包まれた一目でそれとわかる建物が視界に入ってきた。
電車を降りて大学病院へと続くあまり人気のない道をカートを押しながら歩いていた。
カートの中でコムギが立ち上がって降りたそうにしたのだが、病院までの途中でコムギが不安がってしまうかもしれないと思い、病院までの道のりは距離があったがコムギは中に入れたままにした。
病院へと続く長い一本道は歩道の幅が狭いうえにあまり整備が行き届いていなくてカートがガタガタと揺れた。
可能な限り揺らさないようにそして歩道からはみ出ないように慎重にカートを押す。
降りることを諦めたコムギはカートの中で静かにしていた。
大学病院に着くと、相変わらず紅葉が晴天を染めるように広がっていた。
黄色い落ち葉に覆われた芝生の上にコムギを降ろす。
コムギが地面の匂いを嗅ぎながら、シャリシャリと落ち葉の上を歩き出した。またこの場所に戻って来てしまったことに気づいているであろう。
まだ受付まで時間があったので、前回は入らなかったドッグランに入ってみることにした。
中に入りリードを外したものの、コムギは走り出すこともなく地面を嗅ぎながら僕の周りをウロウロするだけだった。
僕はドッグランの中に置かれていたベンチに腰を下ろし、どことなく寂しげなコムギをただ見つめていた。
ドッグランにも黄色く染まった落ち葉が舞っていた。
何枚かある診察券から大学病院のものを取り出して受付を済まし、先週訪れた時と同じ内庭沿いの席に座った。
何となくこの席に座れたらいいなと思っていた。
内庭の紅葉が変わらず綺麗だった。
壁一面をくりぬいたような広い窓を覆い尽くしてしまうかのような紅葉の隙間を縫って優しい日差しが溢れ入ってくる。
どちらかというと寒色が多い無機質な室内に於いてその日差しは少なからずとも暖かみを与えていた。
目の前のテレビモニターには前回と同じNHKの教育番組が流れていた。
ぼんやりと画面を眺めている僕の隣でやはりコムギは落ち着かなかった。
カートに乗ろうとしたり、入り口に向かおうとしたり。
そっと押さえ込むとコムギがクンと鳴いた。
僕はたまらずコムギを膝の上に抱えあげ強く抱き締めてその背中に顔をうずめた。
コムギの体温と、体に浴びる内庭より到来する日差しがやたらと温かく感じた。
しばらくして名前を呼ばれると、僕はコムギをそっと撫でてから診察室に向かった。
「おはようございます。コムギちゃんの週末の様子はどうでしたか?」
診察室に入るとO先生が明るい笑顔で迎えてくれた。
「食欲は普通なのですが少し元気が無いですね。」
普段から決して元気潑剌といった調子では無いのだが、それでもコムギは元気がなかった。
「彼女から聞いたのですが麻酔の影響なんですか?」
「そうですね、個体差はあるので一概には言えないのですがまだコムギちゃんには照射による副作用は出ていないとは思うので麻酔が影響しているかなと思います。」
「副作用があるということは、もう照射の効果が出ていたりすることもあるんですか?」
「はい、早い子はこのくらいで効果が出てくることもありますし、遅い子は照射して時間が経過した後に効果が出ることもあります。」
先生は僕がコムギに照射の効果が出ているのかを知りたがってると察して
「どこかのタイミングで効果が出ているかCTを撮りましょうか?」
と聞いてきてくれた。
さすがにまだ効果は出てないだろうとは思いながらも、期待もあってお願いすることにした。
「ではCT撮影をお願いできますか。」
「分かりました。結果が分かりましたら電話で連絡しますね。では、コムギちゃん預かりますね、おいで、コムギちゃん!」
不安な様相で入り口の方ばかり気にしていたコムギだったのだが、O先生に明るく声を掛けられると前回と同じように素直に付いて行った。
診察室の先に連れられていくコムギに別の若い男性の先生が声を掛けた。
「コムギちゃん、おはよう、また散歩行こうね!」
コムギはその先生を見上げて応えていた。
コムギはここで大切に預かってもらっていることを知り、どうしても沈み込みがちな気持ちを奮い立たせて治療に向き合わなければと思った。
コムギが連れていかれる手術室や研究施設、入院設備があるエリアは様々な人たちが行き交っていた。
僕は人々の交差の中にコムギの姿が消え入るまで立ち尽くして見つめ続けた。
次の話 -希望-
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