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【読書感想文】猫を抱いて象と泳ぐ 小川洋子
小川洋子さんの「猫を抱いて象と泳ぐ」を読んだので感想を綴ります。
あらすじ
「大きくなること、それは悲劇である」。この箴言を胸に十一歳の身体のまま成長を止めた少年は、からくり人形を操りチェスを指すリトル・アリョーヒンとなる。盤面の海に無限の可能性を見出す彼は、いつしか「盤下の詩人」として奇跡のような棋譜を生み出す。静謐にして美しい、小川ワールドの到達点を示す傑作。
感想
読み終えたとき、リトル・アリョーヒンの人生を共に旅できた幸せとともに、この小説の面白さの魅力をまだ表層的な部分しか理解できていないことを確信しました。小説の中で描かれる、盤上に収まらないチェスの奥深さのように、この小説は一読では抱えきれないほどの奥行をもっています。
それでも感想を綴るのは、今の私がどう感じたのかを素直に書き記し、いつか再読した時に覚えた感情と見比べるためです。
限られた居場所の中にある無限の世界
リトル・アリョーヒンに近しい登場人物はみな、限られた居場所の中に生きているように思いました。
屋上、壁の隙間、バス、山の中、そして盤下。
そしてチェスもまた8×8マスの盤面という限られた居場所の中に生きています。
だが、その限られた盤面の海は広大で、無限の可能性を、世界を描いていく。それは言葉よりも雄大で、鮮明で、美しい。
マスターと過ごした思い出は、あまりに温かく、遠い日の思い出を懐かしむには余りあるほどなのに、マスターの魅力はバスの中で描かれるのです。
一方、バスという居場所から外に出たマスターは、リトル・アリョーヒンから見てもおどおどしているように描かれています。
これがあの、精密で悠然とした手を指すマスターなのだろうか
同じバスでも走っているバスに乗ったマスターはやはり、どこか心もとなく、おどおどして見えた
これらの描写に私は、「限られた居場所の中だから描くことができる世界の美しさ」と、「その世界は居場所の外からは見えない恐怖」を感じました。
チェスの美しさはチェスを打てる人同士でしか"真に"伝わらない。
小説の美しさは、文字という限られた表現技法の中であるからこそ表現できる。
チェス棋士が小説を書いても、小説家がチェスを打っても上手くいかないことが多いと思います。
私たちは自分が表現できる居場所に、リトル・アリョーヒンのように無限の可能性を見出し、そこに詩という世界を紡いでいく。
限られているから「美しく」、限られているから「儚い」のかもしれません。
マスターのバスが壊される描写を読んで、私は言い表すことのできない悲しみを感じました。
この悲しさは、「マスターが美しさを発揮できる世界」が壊された悲しみだったと思います。
どれだけ自分が美しいと感じ、大切にしている世界であっても、その世界の外側の住人からは、簡単に、あっけなく破壊されてしまうものか。
バスの破壊は限られた美しさの脆さを意味した描写であったと思います。
"リトル・アリョーヒン"という居場所にある
リトル・アリョーヒンという世界
「慌てるな、坊や」
作中、マスターからリトル・アリョーヒンへと、何度も語り掛けられる温かい言葉。アリョーヒンにとってこの言葉は何度も心の中で反芻する、いつまでも生きていく言葉です。
私はリトル・アリョーヒンの心の中に、愛した人たちが生きていて、彼の世界は愛した人たちの居場所であったと思います。
インディラ・ミイラ・ポーン・マスター・老婆令嬢など、彼が交流を通して覚えた感情、交わした言葉、抱いた印象は、もはや彼の一部となって生き続けていて、彼という居場所の中で、自由にその美しさを表現していたと思います。
リトル・アリョーヒンの世界は、リトル・アリョーヒンが愛した人たちで、美しさで満たされてたと思うのです。
そしてリトル・アリョーヒンの居場所の1つは”リトル・アリョーヒン”です。
リトル・アリョーヒンの世界の美しさは”リトル・アリョーヒン”の中で描かれる。唇をぴったりと閉じた、彼のあるべき姿で。
そんな彼の居場所である"リトル・アリョーヒン"は盤下の詩人として多くの人に愛された棋士となりました。
つまり、リトル・アリョーヒンの愛でできている世界の美しさによって、"リトル・アリョーヒン"という居場所が愛された。
リトル・アリョーヒンの死は、突然に訪れます。
だが、彼の愛したものと”リトル・アリョーヒン”という居場所をと一緒に旅に出ます。
そして、彼の世界の美しさは棋譜によって残されるのです。
彼は最期まで、その居場所の中で、世界を描き続けた。
私はこれを幸せと呼びたい。
「あるべき姿」と「成長」
もしかしたら神様は、この子の幸せのために、わざと唇を閉じたままにしておいたのかもしれないというのに。
心もとなげに唇を開く彼の目は、「こういう動かし方で、間違っていないでしょうか」と、誰かに問い掛けているように見えた。
小説の中で、リトル・アリョーヒンは居場所において唇を閉じて、その世界を描きます。
それが唇のあるべき姿、言い換えれば居場所であり、そうでないと世界を描くことができません。
唇は手術という外因的行為によって「あるべき姿」ではなくなり、居場所に居られなくなる例として用いられたと思います。
そして同じように居場所に居られなくなることがあります。
それは「成長」です。
リトル・アリョーヒンはマスターの死以降、大きくなること、つまりは「成長」を恐れます。
人間における成長ってなんでしょうか。それは身体が大きくなる事だけではないと思えます。
私は唇や成長を恐れる描写は、人が成長とともに責任や世間体に縛られ、他者からの圧力によって自分が生まれたままの「あるべき姿」から変わってしまい、才能が発揮できる居場所にいられなくなってしまうことを意味していると思います。
私のこの本の解釈の1つは、無為自然に生きること。
あなたの才能が発揮できる、世界を描ける場所は、あなたが自然と「あるべき姿」で居られる場所にある。
あなたの身体はあなたの居場所に居れるようにできている。
祖母の布巾
本項目に関しては、まだ深く理解できていませんが、記録のために書き残します。
リトル・アリョーヒンの母親、祖母の一人娘が亡くなってから、祖母は布巾を常に持っています。
それは祖母の魔よけであり聖典であり守護天使であり、何より身体の一部であった。
その布巾がいよいよ祖母の手から離れるのは、彼女の最期の晩、リトル・アリョーヒンと老婆令嬢の対局後です。
”リトル・アリョーヒン”の瞳ほどの小さな塊となった布巾が床に転がり落ちたのも気づかないまま、祖母は彼を抱きしめ続けた。
ただ、祖母が娘を失ったその晩、孫を抱いたときの決意が布巾にとともにあるのであれば、老婆令嬢との対局でその布巾は必要では無くなる。
「あの子には言葉なんかいらないんだよ。だっとそうだろう?駒で語れるんだ。こんなふうに、素晴らしく……」
なぜなら、リトル・アリョーヒンは才を発揮できる居場所があることを知ったから。
終わりに
小川洋子さんの作品を久しぶりに読みました。とにかく最初から最後まで読みながら「美しい」と感じました。
数年後この本を読み返した後、このnoteを見て「何を言っているんだ。この人は.…」となる自分がいると思います。
でもそれでいいんじゃないかな。これが今の私が素直に感じた自然な感性だから。
ミイラと鳩について書けなかったな。未来の自分は書けるかな。