【映画感想文】リトル・ダンサー
リトル・ダンサー、リマスター版のリバイバル上映を観てきたので感想文を綴ります。
あらすじ
舞台は1984 年のイングランド北東部にある炭鉱町。少年ビリーは、父・兄・祖母と4人暮らし。母は数年前に他界。父と兄は炭鉱ストライキの最中。
ビリーは父にボクシング教室に通わされているが、ボクシングには全く興味無く、その試合はダンスのよう。
試合に負けて居残り練習を命じられたビリーは、同じ体育館で行われているバレエ教室に興味を持つ。
バレエ教室の先生であるウィルキンソン先生はそんなビリーにレッスンを行い、ビリーもバレエの魅力に気づいていく。
そしてビリーの才能に気づいたウィルキンソン先生はビリーにロイヤル・バレエ学校の受験を勧める。
一言で表すと
古き良き青春映画。バレエに打ち込む姿、ウィルキンソン先生との衝突、デビー(ウィルキンソンの娘)との関係、家族との衝突、ロイヤル・バレエの受験と、青春映画にあるすべての要素が詰め込まれています。
「自分らしく」あることを教えてくれる作品です。
感想(内容を含む)
意外過ぎるダンスシーンの挿入場面
序盤の描写はビリーの生活環境があまりに苦しい!!
ボクシングの試合に負けたことで失望を見せる父、優しさの欠片も感じさせない兄、認知症の祖母に親身になっているはビリーだけ。なかなかに過酷な家庭でビリーは過ごしています。そんな中、ビリーが出逢ったバレエは、彼にとって「感情の爆発」に見えます。
ビリーが躍る描写が何度も作中描かれるのですが、驚くべきはそのダンスシーンが描かれる場面。ビリーは哀しみや不条理に対して、明るい曲で軽やかに踊るのです。これはビリーが底抜けに明るく、悩まない性格だからではありません。むしろビリーは繊細で思慮深く傷つきやすい少年として描かれています。彼は不条理へのやるせなさを、理不尽な現実を変えられないどうしようもない気持ちをダンスに昇華させています。青春映画のミュージカルでシンプルに悲壮を謡うのではなく、まるで現実から逃避するように明るくダンスする姿は事態の悲壮さが一層伝わってくるため観ていて痛々しくまでありました。
一方、夢中に明るく踊り感情を爆発させているビリーは映画の序盤から異常なまでのダンスへの没頭を見せていたと言えます。終盤、ロイヤル・バレエ学校での面接でビリーは踊っているときの気分を問われますが、その回答は「Dunno(さあ)」。まさにビリーにとってダンスとは、感情の爆発であり母の手紙にあった「Always be yourself.(いつもあなたらしくありなさい)」の体現なのだと思います。
ビリーを演じたジェイミー・ベルは「イギリス北東部の訛りを持つ、ダンスが得意な少年」という条件の2,000人の候補から選出されたそうです。彼の演技・ダンスはこの映画の説得力を大きく高めていて、彼のダンスシーンを観るために何度も映画館に行きたいほどです。
ウィルキンソン先生が好き過ぎる
映画の序盤でビリーがバレエレッスンに混ざったとき、ウィルキンソン先生は彼に対して「一緒にやる?」とか「混ざる?」みたいな言葉じゃなくて「シューズの大きさ」を聞くところに感動しました。おそらくビリーの性格では一般的な誘い方では「女の子がやるバレエなんて…」と「他者の目」を気にして教室に入ることは出来なかったでしょう。そんな彼に合うシューズをぶっきらぼうに渡し、レッスン後は授業料を求め、辞めるならシューズを返せというウィルキンソン先生は、意図したか意図せずかわかりませんが、ビリーを「他者の目」から解放したように思えました。
ビリーが父にボクシング教室代を使ってバレエ教室に通っていたことがバレた後に、ビリーにロイヤル・バレエ学校の受験を勧め、無償でマン・ツー・マンレッスンをすることを提案するところなんて「聖人かよ!!!」と心の中で叫びました。このときも本心と置かれている「環境、立場」との間で答えに詰まるビリーに対して、ぶっきらぼうな態度で彼の本心を引き出すのです。ウィルキンソン先生は常にビリーの意思を尊重してくれて、ビリーもそれをわかっている(序~中盤でビリーに傾聴してくれる人があまりに少ない)から自分の心に素直に「自分らしく」なれたのだと思います。
それだからこそ、最後の合格発表は真っ先にウィルキンソン先生に伝えに行って欲しかった!!!若さゆえですかね…。願わくば大人になった逞しいビリーの心の中に、今もウィルキンソン先生の「You’re not concentrating.」が響いてほしいです。
マイケルの「自分らしく」
同性愛者として描かれたビリーの同級生マイケル。
2000年に公開された作品と思うとLGBTを描写したことは先進的だったのではないかと思います。
クリスマスに2人でリングで踊るシーンで、父とボクシングコーチに見つかったとき、マイケルは"ずっとつけたかった"チュチュを「他者の目」を気に外してしまいますが、一方ビリーは父の目の前で彼の才能を見せつけます。
マイケルにとって「自分らしさ」を表現するビリーの姿は、マイケルに「自分らしく」あることへの勇気を与え、好意から憧憬にも似た感情へ変化したと思っています。
だからマイケルは別れのシーンで「ダンス・ボーイ」とビリーを呼んだのだと思います。ビリーからの別れのキスは、2人の別れにおいて、これ以上綺麗なものはないと感じさせてくれました。
ラストで「自分らしく」を体現できたマイケルを観れるの嬉しかった。
牛乳瓶のシーン
ビリーが冷蔵庫から牛乳瓶を取り出して直接口をつけて飲もうとするシーン。ビリーの母が出てきて「グラスに注ぎなさい」「瓶を戻しなさい」と言うのですよ。そして瓶を戻した時にはその姿はもう見えないのです。
ビリーがまだ11歳の少年であることが伝わるだけでなく、母の記憶がどれだけ日常に紐づいている如何に大きな存在か伝わる描写で、作品を通して一番印象に残ったシーンでした。
父の「自分らしく」
序盤、父はかなり嫌な人として描かれます。「男ならボクシングやフットボールやレスリング!!」しかし理由は言葉にできない。自分の理想のとおりに家族をコントロールしたい横柄な人間です。私もそのように彼を見ていましたが、とあるシーンで彼に対する印象が変わります。
それは「ピアノを壊すシーン」です。
とても悲しいシーンですよね。壊れるピアノの絃がなる音も相まって、ビリーのように耳を塞いでしまいたい気持ちになりました。
でも、母が亡くなってからずっと置いたあったピアノを、なぜ今壊すのでしょう。ビリーの演奏がうるさいから、だけではないですよね。
序盤、父の内面を描く描写は少なく感じます。むしろ毒親のような記号的役割を与えられえているように感じました。これは父に同情してしまうとビリーの敵としての役割が上手く機能しないからでしょう。
私はピアノのシーンで、「母は死んだ」と言う父が、ビリー以上に母の死を呑み込めていないのではないかと思いました。母(彼にとってをは妻)を失った悲しみから、過去から進めず、今目の前の炭鉱での仕事に意味を見いだしてストライキで気持ちを紛らわしているように見えます。
しかしクリスマス、未来を見つけます。ビリーという未来です。
未来を見つけた父が炭鉱に向かい兄に止められるシーンは、スト破りを蔑視していた立場と父親としての立場に葛藤しつつも、ストで変わらない現実よりビリーという未来へ選ぶ、心が揺さぶられるシーンです。
スト破りのバスの中で「他者の目」に曝される父は、ビリーがどれだけの苦悩を抱え、「自分らしく」あるために勇気ある行動をしていたか気づいたと思います。
そのあとのボクシングコーチがロンドン行のお金を出してくれるシーンは最高にアツい展開ですよね。
終盤で父の坂を上って走るシーンは、中盤でビリーが走るシーンと重なります。まるで未来を夢見る無邪気な少年のように。
ロンドンへ向かう準備の中、未来を恐れるビリーに父は「We’re all scared.」と伝えます。
父はビリーに「男」を求めていたように自分にも「強い大人」であることを課していたのでしょう。
父はビリーを認めたことで、苦悩し、葛藤し、弱い、ありのままの「自分らしさ」を認めることができたのだと思います。
好きなシーン羅列
書ききれないほど好きなシーンあるので、羅列します。
「…見せなくたって好きだよ」
ありのままのあなたを好いている。最高の返しです。お祖母ちゃんの別れのハグ
これが別れだと伝わっていたのでしょう。抱きしめた後、強く押し出す描写に、祖母の感情が乗っていてとても好きです。兄の「I miss you.」
あの一言でどれだけビリーのことを愛していたか気づかされたことが伝わって、とんでもなく鳥肌立ちました。ビリーに聞こえないから言える言葉ですよね。兄がストリーダーという立場ではなく、兄として「自分らしく」発言できたシーンに思えます。ラストシーン、かっこよすぎる
言わずもがな、アダム・クーパーがカッコいい!
最後に
感想を書きながら、この映画は立場や他者の目から解放されて「自分らしく生きる」話だと気づきました。
自分を見失いそうになったとき、この映画に戻ってきたいと思います。
ビリー、マイケル、父について多くを書きましたが、私が気づけていないだけで登場する様々な人物にもっと多くのストーリーがあるのかもしれません。
読者の方で気づいた点や感想・意見があればぜひコメントで教えていただきたいです。