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【雑記】アイダ・ルピノという映画監督のこと

アイダ・ルピノという監督の存在を知ったのは、今年の春に下高井戸シネマで実施された「ウィメンズ・ムービー・ブレックファスト」という書籍発売記念の特集上映がきっかけだ。

この一冊で、映画との毎日がちょっぴり変わる。
映画とともに生きる女性たちと、女性たちとともに生きる映画と。

https://www.filmart.co.jp/2024/04/16/32281/

”女性”が活躍する映画を多様な角度からフォーカスして特集を組んだこの企画では、アイダ・ルピノの最後の監督作品『青春がいっぱい』が上映された。

一見すると『ブックスマート』などのガールズムービーの源流に位置するようなちゃきちゃきした学園コメディなのだけど、修道院の寄宿学校というキリスト教的側面がかなり濃密で、その緻密な演出にうっとりした。

その演出の詳細含め、その特集については以下の感想まとめで触れました。

普段からフェミニズムのことを考え、そういった題材の映画には心を奪われがちである。一方でフェミニズムとは女性だけの物語ではないし、女性が出ていればフェミニズム、というわけでももちろんない。
ただただ各世代に存在した貴重な作品の中心で輝く女性たちと一緒に、これらの映画のことを考えてみる。

https://note.com/tainotainotai/n/n9052d9d4d8a9#e0beb2da-c71f-49fa-84bd-bfcaade713ca

後述しますが、簡単に要約すると、聖母マリア様の慈愛の目線をカメラワークそのもので表現していて、その高低差で”見下ろす構図”があまりにも秀逸だった。基本的に生徒同士の連帯とそれに立ちはだかる教師という対立構造があり、それは画面上では横並びの構図でシンプルかつ分かりやすく描かれている。それ自体もエンディングにつながる人物相関の動きを視覚的に捉えていてすごいなと思うのだけど、卒業後も寄宿学校に残ることを決意したメアリーのポテンシャルの描写としてあの高低差を用いていて、美しい。

そして本作を通じてアイダ・ルピノに興味を持ったのは、上映後のトークショーで梅本健司さんというアイダ・ルピノ研究者の方の解説が非常に興味深かったから。(聞き手として映画ライターとして活躍されている月永理絵さんも同席されており、今思い返すと豪華な布陣だった。)

アイダ・ルピノは女優としては名が知られているが、彼女の監督作品は(日本では)流通していないこと、そしてそのどれもが理知的かつ技巧に富んだ名作ばかりだということを知った。

それ以来頭の片隅に何となくインプットしていたアイダ・ルピノ。その監督特集が今年の9~10月に実施された。鼻息を荒くしてシネマヴェーラに通うかたわら、配信視聴可能な作品と市販DVDとを組み合わせることで、無事彼女の監督作品を網羅することができた。

歴の浅いシネフィル見習いではあるけれど、自分の嗜好ドンズバな作品が多く、非常に実りのある映画体験だった。それを忘れないうちに残しておきんす。


望まれざる者(1949年)

本編のほぼすべてが回想シーンという作品。濱口竜介監督と梅本さんのトークでも触れられたが、部屋の中という閉じた空間、さらに4:3に詰め込まれた画面の中の立体感が意識されているように感じた。特に前後の奥行というか、追う者と追われる者が前後に並んでいたり、逆に妊婦同士の連帯シーンはベッドを横並びにして奥行を消したり。濱口監督がその手法を絶賛していたが、映画制作の素人でもその巧みさが頭抜けていることは容易にわかる。

それにしてもルピノ作品に登場する女性はよく逃げるなあ。物理的に遠くへ行ってしまいたい、という焦燥感や恥じらいの気持ちが発現したように見える。本作では帰還兵から逃げ回るラストシーンが印象的で、一般的なメロドラマだったら逃げる女性を追う男性が捕まえて「もう離さない、きみを愛してる!」というエンディングにするだろうが、ルピノは見事に真逆を描いた。

躓いて動けない帰還兵にふと主人公の女性が振り返り手を差し伸べる‥という、帰還兵によって心の救済が果たされたことに気づいた主人公が、今度は戦争で負傷した彼を抱き起すという身体の救済を果たすのだ。この相互に補完しあうような愛の形がとても美しい。

恐れずに(1950年)

『望まれざる者』と結末は似ているが、男女の役割は逆かな。ガイの寛大さを無下にするなんて!という声が聞こえてきそうだけど、実際ダンスのペアとしても抜群の相性を誇る者たちにとって、踊れないことでふたりの間に亀裂が入ると思うのは当然のことだろう。ソロのダンサーとしても将来を約束された恋人の足を引っ張るわけにはいかないという、むしろキャロルの方が断腸の思いだったことが窺える。

一方でガイの不動産業界での奮闘ぶりは面白かった。『青春がいっぱい』に至るまでコメディ調の作品はあまり無かった印象だった。セールスに奔走するガイの様子があまりにひたむきで、それはコメディカルである以上にエンディングのカタルシスにも通じる丁寧なキャラクター設計になっている。

キャロルが愛と逞しさを獲得するところで物語が最高潮に至るが、まるで生まれたての小鹿のようにプルプルの歩みで退院するキャロルの表情と足取りは秀逸だった。やはりリハビリが成功しても、愛する者を失った外の世界を歩くのは怖いのだ。そして眼前に現れるガイ。その飄々とした佇まいは王子様のそれとは程遠く、素直な愛情に従った等身大の男だった。「ガイーーー!!!」とガッツポーズして叫んでしまいそうになるほど、その理想的なエンディングに興奮した。

暴行(1951年)

冒頭の数分間で痺れる。物陰と陰影の間を縫いながらの丁々発止の一部始終はとてもスリリングだ。そしてタイトルバックで強烈な印象を与えるのは、これもまた上下のカメラワークだ。暴行の現場のすぐそばに人がいながらも、誰も気づかない‥という絶望感のあるオープニングを演出するのに、まさか高低差を利用するとは。あのシーンの高揚感はすさまじかった。

さて本編の話をすると、トラウマとの闘争と救済までを最短経路で描くような、本当に無駄のないシナリオだった。無駄がないながらも聖職者のブルースとアンが親密になっていく様子もサイドストーリーとしてバッチリ描写されていて、ブルースがバス停でキスしようとするのを抑えるような仕草にもつながる。あれは性被害に遭った女性へ救いをもたらすブルースのような男性の存在を、詳細かつ端的に描いた至極の数秒間だった。ブルースの気持ちを否定せず、被害者への恋慕の気持ちを無かったことにしないというルピノのフェミニズム的な良識が、シンプルな物語にぐっと深みを演出している。

この作品については梅本さんの以下の記事が素晴らしいので、ぜひ。

明らかにふたりは惹かれ合っているようにも見えるのだが、ブルースがアンとの恋愛関係を望むことはない。ブルースという人物を、たとえば『暴行』以前にレイプを描いた『ジョニー・ベリンダ』(1948年、ジーン・ネグレスコ)のリュー・エアーズ演じる男性医師や『暴行』直後にルピノが出演することになる『危険な場所で』(1951年、ニコラス・レイ)において、彼女自身が演じる盲目の女性から隔てられているのは、癒しと恋愛関係が結びつくのを彼自身が拒むことにある。

https://www.nobodymag.com/special/vera/4.html

強く、速く、美しい(1951年)

テニスの試合を撮影するのに苦労しただろうなあ。それはともかく、かなり現代的な物語だった。特に母親が娘の才能を利用して自分がのし上がろうと躍起になる様子を見て、このプロットの源泉はこの時代からあるんだなあ、と思った。

最終的に愛を優先したような結末でハッピーエンドなのかと思いきや、ルピノ作品には珍しいというか、勧善懲悪的なエンディング。次作『ヒッチハイカー』のように悪人がしっかりと懲らしめられるとまではいかずとも、毒親がひとり閑散としたコートで茫然とする様子は新しかったのかもしれない。前作『暴行』でレイプ犯が裁かれる直接的な描写がなかったことを考えても、本作は分水嶺的な作品だと捉えていいだろうな。

とにかくスピード感に溢れていて、最後の試合からエンディングまでの駆け抜けるような喜怒哀楽の嵐は見事だった。

ヒッチ・ハイカー The Hitch-Hiker(1953年)

前作『強く、速く、美しい』と比較して、より悪意にフォーカスした物語に仕上がっている。一般的なクライムものと大差ない印象ではあるけれど、主人公が成人男性2人という設定それ自体がそもそも目新しく感じる。ハリウッド的なハラハラドキドキを求めるならば、なんとなく女性2人の旅に殺人鬼が現れる、というプロットの方が引きがあるようにも思える。

それを頑強な既婚者男性2人が襲われる、という流れにすることで、本質的な恐怖の演出に一役買っているのだろうか。2人がかりで反撃すればどうにでもなるだろ、というツッコミも思い浮かんだが、下手なことをすれば死にかねないという潜在的な恐怖が自信を削いでいくものなのだろう。

そして本作では犯人が明確に懲らしめられるというか、ちゃんと警察に追いつかれてちゃんと逮捕される。これまでの救いにフォーカスした結末とは打って変わった様相を呈していて、それは次作『二重結婚者』のエンディングにも繋がるだろう。

二重結婚者(1953年)

突飛なタイトルから想像するに、重婚を犯した男性がふたりの妻に挟まれるかのような愛憎劇かと思っていた。ふたを開けてみればこれもまたほとんどが回想シーンで、ひとりの男性がやるせない苦悩のために誤った選択をしてしまい、後に退けないながらも着実にふたつの愛を育んでしまった、という悲しい物語。

この物語ではその結末が肝心で、やはり主人公の男=二重結婚者が悪人として裁かれないという点に注目したい。最終盤の裁判シーンで『ヒッチハイカー』の勧善懲悪を踏襲するかと思いきや、それ以前のルピノ作品でも顕著に描かれた赦しや救いがもたされるという、ハイブリッドの結末なのだ。

そして、ルピノ作品では初めてと言っていいほど、このエンディングには「解釈」や「余白」が残されている。
二重結婚者の主人公の実直さは本編を通して説得力があったので、彼がその後2人の妻に対して誠意を持って対応することは容易に想像できる。
しかし、がらんとした法廷に立ちすくむ2人の妻の後ろ姿を連続で映したあのカットからは何が読み取れるだろうか。恨みか、感謝か、許しか。妻たちが重婚を知ったときの反応はほとんど描かれていない。だからこそ、あの後ろ姿にはたくさんの余白がある。「画面に映っている人物の感情を描かない」というのはルピノ作品では珍しい。本作以降テレビシリーズに活動の場を移したようだが、本作の結末はその鍵となるのだろうか。確かめる術はないのだが…。

青春がいっぱい(1966年)

『二重結婚者』から13年ぶりの映画作品か。順序立てて思い返すと、それまでの作品からは想像できないくらいのコメディだ。とはいえ、上下のカメラワークの使い方だったり、人物相関を視覚的に表す切り返しの会話だったり、確実にルピノのエッセンスを感じられる。

改めて言及しておきたいのは、結末に至るまでの描写が終始丁寧だったこと。特に、それまで対面・対立の構図だったメアリーと修道院長がラストには肩を並べてレイチェルを見送るシーンは、格別のカタルシスだった。人物の配置で相関関係やライフステージの遷移を表現するという、相変わらず撮影技法や構図が光る演出に富んでいる。

結末自体についても触れたい。

エンディングでは、かつて生徒同士・シスター同士が横並びになってその連帯感を表していたのと同じように、メアリーと修道院長が肩を並べて列車を見送るのだ。メアリーとレイチェルのライフステージが変化し、レイチェルは外の世界へ飛び出し、そしてメアリーが次に関係性を育むのは修道院の仲間たちなんだ、という未来を予測させるエンディング。最高か!

https://note.com/tainotainotai/n/n9052d9d4d8a9#e0beb2da-c71f-49fa-84bd-bfcaade713ca

それまでキッパリと結末を描き切ることが徹底されていたルピノ作品は、『二重結婚者』ではじめて結末にたっぷりの余韻を残した。『青春がいっぱい』ではエンディングに解釈の余地そのものはないが、将来を暗示するさわやかな余韻がずっと続く。それはキッパリと描き切るだけでは醸し出せない雰囲気であり、まさしく旅立っていく汽車を見送る感覚に近い。ルピノ作品初のワイド画角で横の広がりが得られたことも、見送りシーンの叙情を誘っているかもしれない。


「はい終わり!」と急に幕が下りるような作品からはじまり、『二重結婚者』の霧散するような曖昧な結末を経て、『青春がいっぱい』の"分かりやすい余韻"を残してアイダ・ルピノ監督作品の幕は閉じる。その変遷の間には彼女の女優としてのキャリアやテレビ作品に携わった経歴が関係していることだろう。

その行間すべてを読むことは叶いそうにないが、アメリカ映画史と女性監督史には欠かせないような存在(だと勝手に思っている)のアイダ・ルピノ、その監督作品を網羅できたことで、自分のライブラリーにも頼もしくて壮観な並びが加わってくれたなとおもう。

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