『Shirley シャーリィ』映画評 ただのシスターフッドではない

7/5(金)公開の映画『Shirley シャーリィ』。公開希望の小ささも影響しているのか、突き抜けた評価を得ている印象はなかった。しかし、公開から1週遅れて劇場に足を運んだが、その評判を軽く覆すほどのおもしろさだった。

1948年、『ニューヨーカー』誌上に発表した短編「くじ」が一大センセーションを巻き起こした後、新しい長編小説に取り組んでいたシャーリイ(エリザベス・モス)はスランプから抜け出せずにいた。小説の着想の元になったのは、ベニントン大学に通う18歳の少女ポーラ・ジーン・ウェルデンが突如として消息を絶った未解決の失踪事件。同じくベニントン大学教授である夫のスタンリー(マイケル・スタールバーグ)は、引きこもってばかりいるシャーリイを執筆へ向かわせようとするがうまくいかない。ある日、そんな二人のもとへ一組の夫妻が居候としてやってくる。文学部でスタンリーの助手として職を得たフレッド(ローガン・ラーマン)は、妻のローズ(オデッサ・ヤング)とともにバーモント州の学園都市へ移住を計画していた。新居が見つかるまでの間、無償で部屋と食事を提供する代わりに家事や妻の世話をしてほしい̶̶スタンリーに半ば強引に言いくるめられた夫妻はシャーリイとスタンリーと共同生活を送ることに。他人が家に上がり込むことを毛嫌いしていたシャーリイだったが、自分の悪態にも挫けずに世話を焼こうとするローズを通じて、次第に執筆のインスピレーションを得るようになる。一方、ローズはシャーリイのカリスマ性に魅入られ、いつしか二人の間には奇妙な絆が芽生えていく。しかし、この風変わりな家に深入りしてしまった若々しい夫妻は、やがて自分たちの愛の限界を試されることになるのだった……。

社会派作品としてフェミニズムは食傷気味だという意見と、単純にストーリーの流れが分からないという意見が散見される。どちらの観点からみても、この作品は良くも悪くも観た者の想像力が試されてしまう。受動的な鑑賞ではおいてけぼりになってしまうだけなので、自分も拙い想像力を働かせてみた。

シャーリィは「この世界は女の子には残酷すぎる」とローズに諭した。このセリフは劇中随一のパンチラインとして記憶に焼きついていることだろうが、まずはその真意から、この作品のことを紐解いてみる。

この発言をローズに向けたその真意は、妊娠により大学教育の道半ばで脱輪してしまうと、女性はもう二度と元の道を走ることはできないということだ。さらにローズの夫フレッドはこれからの学界を担う存在で、学内では女生徒からの人気も厚い。ローズが「若き良妻」というレッテルにまみれて学問の道を逸れていく傍ら、大学を修了して可能性を羽ばたかせる同世代の女生徒がいる。そして彼女らが夫の権力と知力に群がっていく。その裏で自分が子供と家庭に雁字搦めになってしまえば、その先は自己の破滅しか待っていないだろう。ローズが気づいていないこの惨状を、シャーリィは端的に諭した。

ここだけに焦点を当てればたしかにありふれたジェンダー論から飛び出ることはないのだが、果たしてシャーリィは単にローズを導きたかっただけなのだろうか?

この映画は、二人のシスターフッドという言葉だけで形容できるような作品だとは思えない。シャーリィ夫妻のいびつな関係に、自分がそう想像する理由を見出した。

シャーリィの夫スタンリーは彼女の文才に惚れ込んで結婚を決意したと言っていた。シャーリィの筆を走らせ続けることを使命にしているのか、当時にしては珍しく、彼女の身の回りの世話も彼が担っているように思える。

しかし、献身的な夫というイメージは次第に翻っていく。ローズへのハラスメントにはじまり、フレッドの不当な評価や妨害など、時にシャーリィすらその共犯かと勘繰ってしまうような奇行が目立つようになる。さらにシャーリィがスタンリーに反抗する様子や、スタンリーがこみ上げる何かを必死に抑え込んでシャーリィに屈している態度を見ると、ときおり彼らの関係性には他人が預かり知らぬ黒い思惑が垂れ込めているように思える。

かといって一方的な主従関係が出来上がっているようにも見えず、シャーリィは小説を上梓すること、スタンリーは妻のモチベーションを刺激することという、その間のバランスがうまく取られている気がするのだ。

彼らのそういったいびつな夫婦関係を深堀りしていくと、フレッド・ローズ夫妻を迎え入れたことすらシャーリィが書き上げる小説のダシだったのではないかと想像してしまうほどだ。ローズとポーラの姿が徐々に重なっていく描写は、ポーラが自殺した(とシャーリィが結論付けた)あの断崖絶壁でついに「ポーラ=ローズ」になる。ローズとフレッドが館を去っていくシーンでは、シャーリィは部屋の窓から彼女らの車をただ眺めるだけだった。本当は、ローズもフレッドも存在していなかったのではないか。もしくは、シャーリィとは接触していなかったのではないか。そう思わせるほどだ。

このかなり飛躍した解釈に多少なりとも説得力をもたせてしまうほど、シャーリィの夫婦関係はいびつで、秘密の"たくらみ"が蠢いている気がしてならない。でもなければシャーリィは懇意にしていたローズに夫の浮気を告発するだろうか。シャーリィがローズと物理的な距離を狭めていったのも、そのどこか打算的で蠱惑的な表情を見ると、ただの親愛な感情とは真逆の黒いものを感じ取れる。

本作は当時の時代が浮き彫りにする男女格差と、それに抗う女性を描いた作品としての側面が強い。2024年現在そういった作品は珍しくないが、本作が2019年製作ということも鑑みると、この作風とテーマ性が両立していることだけでも良作だと思える。

一方で、シャーリィ・ジャクスンという怪物の想像力の大波にすべてが飲み込まれる感覚は、もしかしたら船酔いのようにすっきりしないかもしれない。

しかし、伝記映画であることも加味すると、それが本作の評価を下げてしまった一因だとしても、この物語をシスターフッド・フェミニズム映画としてただならぬ深みを演出していることは言うまでもないだろう。

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