映画『正欲』のお話 物足りなさ 不愉快 救い
『正欲』観ました。受け入れられないシーンもあれば、この作品に出会えてよかったと思えるシーンもあって、鑑賞後にぐるぐると考える時間がいつもより多かった。ぜひ残しておきたい。原作は未読、というか朝井リョウの小説自体読んだことがないし、特に読もうとも思っていないけどそれは許してください。
○フェティシズム
まず特殊な性的指向が物語の鍵となる一方で、それが「水」にまつわるフェティシズム(こうは呼称したくないが、便宜上以下「水フェチ」)であることに現実味を感じられないという声が多いようだ。個人的には特にそういう感想は持たないけれど、たしかに想像しがたい指向であるからこそ、冒頭のファンタジックな描写や制服のふたりが水道管を壊して水浴びするシーンのチープさがやや気になってしまった。実在する水フェチの方にとってみれば共感できるのでしょうか。
馴染みないものを排除しようとする気持ちは自分の中に一切潜んでいなさそうだが、単純な興味として性的な欲求を水フェチを通して満たしているのかどうか、気になった。大也のパートにはそういう描写があった。日常的に軽々しく語られる「自分、〇〇フェチなんだよね」というレベルとは段違いの、「それじゃないと性的興奮を感じられない」ということなのだとしたら、想像し得ない疎外感に襲われるというのも理解できる。実際、もう15年くらい前?もっと前?子供のころに見たNHKの報道特集で「音楽を聴くことでのみ性的興奮を覚える」という男性への取材を見たことがある。あれは本当に衝撃だった。自分も音楽を一番大事なものとして暮らしているものの、無くてはならないのレベルが違う。特殊な性的指向を持つ人々は自分の想像しうるその向こう側に存在して暮らしている、ということを改めて実感しますね。誰しもがそういう可能性がある、という認識を事前に持っておくのと、誰彼構わずその個性を後から容認することはまったくわけが違う。
そもそもの珍しい性的指向がベースとなっているこの作品、上澄みだけを観ているとたしかに理解できず寄り添うことも難しいという感想も尤もなのだが、そういう層の代弁者として稲垣吾郎が抜擢されたのはよかったと思う。
✖︎マイノリティの照らし方
だけど、マイノリティの存在に対して想像が及ばないし、当事者と相対したときにも易々と受容できないマジョリティの言動を、マイノリティの心理を照らすために焚べるのはもうやめてほしい。モブキャラが「彼女いないの?」などと訊ねる様子を例にとると、自分の周りには個人の性愛のことに突っ込む人たちがいないからかもしれないが、そういう人たちをわざと無神経に描くことでマイノリティ要素を際立たせる演出に辟易としている。
これについては、「そばかす」を思い出した。あの作品で強烈な違和感を覚えたのは、アセクシャルの主人公に対して母親が従来の価値観で結婚や恋愛を無神経に押し付けようとするところ。実際にマイノリティの方って、マジョリティ側の価値観をバネに、それに反発する形でしか自分の存在を主張することができないんでしょうか?そんなことは絶対にないはずなのに、「そばかす」では主人公の気づきや決意の動機として母親のキャラクターやポジションを設定しすぎている気がして、ちょっと嫌だった。確かに現実世界の何気ない一言に傷ついたり考えを巡らすこともあるだろうし、上記の不満を「現実味がない」とは言わない。ただ画一化されすぎているということに対して不満を覚えている。
つまり、「世の中そんなにリテラシーのない人ばかりなの?」と思っている、ということ。そして、それはもしかしたら自分自身の価値観が常に最新版にアップデートされているからかもしれない。そういうおこがましい自負に対しても問題を突きつけて欲しかったのが「正欲」だったし、稲垣吾郎だったのだけど、結局吾郎ちゃんの役も「そばかす」の母親と同じだった。もっと「私はマイノリティに寄り添っているよ」と豪語する自分のようなマジョリティへの嫌悪も深く描写してみてほしい。そうじゃないと気づけない。でもそれが危険だということもわかる。「逆転のトライアングル」の世界観になりかねないし、どんな形でもマイノリティのイメージに傷がつくものなら、邦画の世界は終わりなのだろう。「波紋」はそのギリギリを絶妙に攻めていてよかったけど、あれも結局コメディだったし、身につまされるような感覚は得られなかった。
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そして、水フェチの二人の話に戻ると、特殊な指向を持つふたりが現実世界に人とのつながりを感じられるための手法が「偽装結婚」なのは、あまりにも残酷すぎる。それを実行できる救われない人たちがどれだけいることか。「私たち、誰にも理解されなくてずっと疎外感を感じていました」は、わかる。「同じ種類の人間と奇跡的に出会うことができました」も、わかる。だけどその後の「これからもその繋がりを絶やさないために私たち偽装結婚します」は全く意味がわからない。
夏月と佳道がホテルの一室で語り合ったシーンは本当に素晴らしかった。「地球に留学している気分」というセリフがあって、(自分も他人からほぼ似たようなことを言われたことがあってからそう自認するようにしているのだけど、)自分の言葉/思考とまったく同じだと佳道が話したときに、疎外感を覚える生き方に対する感覚を共有できた気がして、うれしさのあまり全身が火照った。
このシーンを境に夏月と佳道の繋がりが確固なものになったんですよね?なのになぜ偽装結婚なんていう、あまりにもフィクショナルな方法を選ばせてしまったんでしょうか。本当に理解できないし、じゃあ疎外感を共有できた人たちが同性同士だったら、成人と子供だったら、既婚者同士だったら、どうするの。結婚できないその人たちはどうやって寄り添い合っていけばいいの。偽装結婚のすべてが流行りのエンタメとして生み出されたもののように感じられて、その結果もたらされた偽装セックスのシーンは、気持ち悪くてめまいがした。
◎はじめて得た救い
一方で、上記で書いたようなマイノリティへの光の当て方に満足できなかったもう一つの理由がある。 鑑賞前から自覚しているけど、自分自身も名状できない少数派のカテゴリーに属しているからかもしれず、知らぬ間に当事者になっているからかもしれないということ。それ自体、特段この映画の真のテーマ!とか、自分でも知らない自分!と騒ぎ立てることではないです。勝手に自分を省みて、今感じている違和感と照合してみればいい。それより、これまで少数派にスポットライトを当てて当事者たちを救った作品と比べて、本作はとあるキャラのパートが、その存在が語られること自体がまず珍しいのに、ドンズバで自分を救ってくれることになったことを残しておきたい。
それは八重子というキャラです。こういう「生きづらさ」をテーマにする日本の作品で一番描きやすいのは、こと性愛においてのLGBTQたち。もうそれが基本のフォーマットになっている。人種や宗教にほとほと無関心だから、セクシャルマイノリティーを俎上に上げるのが簡単なんですよ。前述した通り、ただ旧的価値観を焚べれば話も作りやすいし。
だから、多数派であるヘテロセクシャルの葛藤を八重子のような形で描かれること自体が中々ないんです。ふつうに異性を好きになるし性欲もあるような人間が苦しむ様にはあまりスポットが当たらないよな、ということをこの作品を見て改めて感じることができた。
八重子は過去のトラウマが原因だったし、葛藤の内訳までも画一化することはもちろんできないのだけど、もうすぐ公開の「ゴーストワールド」のシーモアというキャラしかり、「ビッグバンセオリー」のラージしかり、「モテキ」の藤本幸生しかり、普通に異性に恋愛感情があって性欲もある、だけど自分は愛されるに値しない人間だと自暴自棄になる人たちへの救いの物語がある。八重子がトラウマを抱えつつも「男性を好きになってしまう」と言い放ったのが忘れられず、その瞬間「正欲」が自分にとっての救いになった感覚を得た。
八重子のパートはかなり淡白で、大也の添え物として登場したような感じだったのはたしかに十分満足できていない。しかし、異性愛者の葛藤をあそこまで詳細に吐露してくれたのは本当に素晴らしいことだと思った。手前のことで言えば、自覚あるほぼすべての性質がマジョリティ側であるのものの、性愛のそれについてはその大多数の範疇にいながらも疎外感を感じる苦しさがある。趣味に生きるとか、独身貴族とか、そういう概念が憎い。その境地に至った人たちは、いま自分が感じている苦しみを通って諦めたからこそなのかもしれないが。とにかく自分は、自分と同じカテゴリにいるマジョリティの皆さんがたやすく達成している感覚を一度も味わったことがないし、今でもその感覚を求めている。
八重子がその「求めたくないのに求めてしまう」苦しさを代弁してくれて、本当に救われた。東野絢香さんというはじめて見る素晴らしい役者さんが八重子を演じてくれてとてもうれしい。
その他とまとめ
書こうとしてみたものの、子供の不登校問題については特段残しておきたい感想はないという結論に至った。あれは全体的に吾郎ちゃんの役柄とを引き立てるためのステージ、そして水フェチたちが集うための舞台装置にしか見えなかった。ずっと木南晴夏だと思って見てた妻役の役者が山田真歩だとエンドロールでわかって声出そうになった。あと、Youtubeが凍結した云々のセリフでしっかりと実在の固有名詞を出しているのにも関わらず、画面に映るサイト名がNowtubeだかNewtubeだか配慮を感じる名前になっていたのが面白かった。聞き間違い?見間違いかな?全然どうでもいいんですが、海外作品でこういう配慮がされている作品はほとんど見たことないな。スポンサーの問題とかなのだろうけど、LINEはめっちゃそのものが登場したのも興味深い。それくらい。
小児性愛についても特によかった点はないかなあ。佳道と大也も、赤の他人の子供(しかも上裸)が映るような映像をそもそも撮影するなよ。あまりの楽しさのあまりそこまで考えが回らずに撮影してしまったのなら、それは性欲に負けて論理的な思考を失っているのと同じだよ。「水着姿の見知らぬ他人の子供を撮影する」なんていうのは、撮影者がどんなマイノリティ要素があったとしても、咎められて然るべしだ。自分の息子の水着姿を動画サイトにアップロードする行為とは一線を画す。擁護しようがないレベルで一般常識が欠けている。いま思い返して書いているくらいだから、実際は物語の終盤も終盤だったし気にならなかったけど。
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とにかく八重子のパートが素晴らしかっただけでも観てよかったと思える。しかも新垣結衣が精彩を欠く人物をあんなに自然に演じられるのかと驚いた。取り調べでの眼差しは基本的に諦観を感じるものだったけれど、しっかりと虹彩に意志を灯すような瞬間もあって、ひとりの俳優として本当に凄かったと思う。磯村勇斗の演技力には今更言及することもないが、稲垣吾郎のそれも今までのイメージが覆って、素晴らしかった。同監督作品の「二重生活」でも門脇麦をはじめとする役者陣の演技がとても良くてめちゃくちゃのプロットのわりには満足したのだけど、今回はそれ以上の満足感を得られた。
週明け、会社の人たちとこの作品について語ることになると思うけど、ニマニマしながら様子を窺おうと思う。久しぶりにひとつの作品について深く考えた。