団地の遊び 給食
給食
通っていた小学校は、団地に東と北を囲まれていた。半分は団地の中である。
団地のウチから団地を突き抜けて学校に着く。
団地だらけである。
ところで、給食は大嫌いだった。そして、給食当番の記憶が全くない。やってないわけはないのだが、ともかく何一つ思い出せない。
給食がイヤでイヤで仕方なく、それゆえ、当番のことなど思い出したくもなく、無意識のうちに記憶を抹消したのではないか、と本気で思っている。
給食自体のことは覚えている。カレーやスパゲティのときは、みんなが喜んでいた。しかし自分は、ウチで食べられるだろう、コイツらなんでそんなにうれしいんだ?と言葉には出さなかったが、本気で思っていた。
給食はどれもこれも99パーセントは嫌いだったが、残り1パーセントで唯一好きなのは、元乃木坂46の新内眞衣様も好きな、揚げパンであった。これだけは、美味かった。
あとはもうウンザリしていた。
小学三年の時だった。シチューが出た。ブタの脂身を残した。すると、女のM先生が、残さず食べなさいと言う。食べなかった。午後の授業が始まっても、豚の脂身の残ったシチューが机にあった。食べるまで片付けないという。放課後になった。食べるまで帰さないという。
絶対に食べる気はなかった。何してもムダだぜ先生よ、ガキのクセにそんなことを思っていた。
だいたい、ブタの脂身を食べることが、どんな教育になるのか?まったく理解できないし、今もできない。
冬だった。夕方近くになり、低い斜めの夕日が、窓から入ってきていた。暗くなる前には帰してくれるだろう、バカなクセして、変にませたところのあるガキだったので、そんなことを思い、時間を潰した。
女のM先生は、教卓の横の方の窓際にある、自分の机のイスに座って何かしている。
やがて、本格的に日が沈み始めた。帰っていいと、ウンザリした口調で言われた。
やれやれ、と思い、寒くなってきた帰り道を歩いた。
ウチに着いたら、遅くなった理由を聞かれた。
翌日、母親が、抗議の電話をしたような気がするが、ハッキリと覚えていない。自分的には、どうでもよかった。ブタの脂身を、食べることが良い教育になるとは、思っていないし、何をしたところで、食べる気はないのだ。
ちなみに、この女のM先生は、いわゆる新任の方で、初めて担任を受け持った人だった。
給食当番の記憶は、なぜか本気で全くないが、給食室のことは覚えている。
一階に降りただけで、給食室の独特のにおい、あれはなんの匂いなのか、米のような、なんかのような、そんなものが漂っている。あまりいいとは思わなかった。
給食室を覗くと、銀色の大きなドラム缶みたいな容器が並んでいる。
壜の牛乳がたくさん入った箱からは、なんともいえない牛乳臭さが漏れている。
自分は牛乳は嫌いだった。
給食は苦痛だった。あの、冷たい食パン。四角いガチガチに固いマーガリン。この固さで、どうやってパンにつけろというのか。力を入れるとパンが破ける。だから、なんもつけずに真ん中だけムリして食べる。カレー、焼きそば、スパゲティほか、給食を全部食べたことなど、一度もないのではないか?
あまりにも、まともに食べないので、見かねた女子が、あたしがマーガリンつけてあげようかーーー勿論断ったーーーとか、男子からも、大きくなれないぞーーー平均にはなったーーー哀れみの目で見られていた感じがする。
腹一杯になったことなど一度もなかった。
後年、牛乳とかバナナとか、やたらとアレルギーがあることが判明した。給食を残していたのは、何か本能的に避けていた、そういった理由もあったのではないかと思う。
学校帰り、団地内の通学路を歩いているときは、たいがい空腹だった。家に帰ると、親戚の住む名物草加煎餅と、かっぱえびせんの大袋はなぜかいつもあり、うまくないな、給食よりマシか、そう思ってほとんどメシ代わりに食べていたのを覚えている。
その後、草加煎餅とかっぱえびせんは、中学生以降、今日に至るまで、二度と食べたくなく食べない人生を送っている。
それにしても、給食当番をやったことを、全く一ミリも思い出せない。やはり、もう死ぬ程イヤだったので、記憶を消去した、それしか考えられない事実に、なるほど、と思う大人だった。