納得してもらえれば何でもいい
現代は神様やスピリチュアルなものを忌避する傾向にある。
雷が落ち、雨が降らず、じぶんの子どもの熱が下がらないのは、お供えしてないから神さまがお怒りなのだということも、もしかしたらほんとうかもしれない。
しかし現代では雷や雨は自然現象で、子どもの熱は風邪で、その薬があり、あたたかくしてよく寝ることで治ると信じられている。
後者をボクらは信用し、前者の文脈で話す人を疑っている。
実はどちらがどう正しいかはあまり関係なく、これらに実は大きな差はない。
単に人々がわからないことを納得する時に、どの説明モデルを信じるのかということが、この場合大事だということなのだ。
今日こんなことを書いたのは、ボクが心理臨床をしていて、時々感じることの一つで、名人と呼ばれる人はここのくくりにこだわりがない人だと感じるからだ。
つまり「うつ病」とか「パニック障害」とお伝えすることが現代では望ましいし、望まれてもいる。
しかしもし望まれるなら、「狐の祟りかもしれないですね」や「亡くなったおばあちゃんからのメッセージかもしれないですね」などの言葉を発することがやぶさかではない姿勢でいられることが、柔軟な姿勢であり、そのくらいの頭の柔らかさでいることが、変化の早い時代を生きていく上でも役に立つのではと感じている。
その人が信じられて、納得できて、わかることを助けるものをお伝えすることが、神さまや祟りや医学や心理学や科学の役割なのかもしれない。