習慣研究室
✳✳習慣が人を創る✳✳
肉体は食べた物で出来ている。フラミンゴがピンクなのは、食べているプランクトンや藻、エビなどの甲殻類に含まれる色素の影響なのだという話を聞いたことがある。我々人類も同様に、このボディは日々の食事によって、成長したり老化したり、病気になったり治癒したり。とにかく、繰り返し何らかの更新・変化をしていることは動物として疑う余地もない。
外見は中身の一番外側
それでは、その肉体という乗り物を操縦するドライバーの方はどうだろうか?我々の肉体を動かす者の正体とは?
精神、感情、意志、魂…、つまり心だろう。心は見えない。たとえば心が肉体の一部として何らかの形を成す臓器であれば、病んでいたり傷ついていることが確認できるかもしれない。
しかし心は見えない。にも関わらず、誰もがその存在を実感しており、大抵の場合、意識は身体によって動かされるのではなくて、意識によって肉体の方をコントロールしているものと思い込んでいる。
我々はその境界、心と身体の繋ぎ目、乗り物と操縦者の境目について、詳しくは知らない。知らないというか、わからないし、見えない。
ただ、肉体よりも心のコントロールの方が、極めて困難であるということは、何となく理解できるだろう。どこからが身体で、どこまでが心なのかはわからないが、ともあれ我々は一番表層の部分を、身体として認識しているに過ぎない。その身体は心と密接に繋がって起動している。「心に操られている」と言っても過言ではない。それでは心はどうやって動くのか?
自動的?自発的?…そうでもないような気がする。教育?指導?訓練?…わからなくもないが、完全でもない。わかるのは完璧な心の操縦が難しいということ。故に、心を自動的・自発的に教育・指導…訓練したとおりに動かすには『習慣化』が必要だ。
無意識を操る有意識
意のままにならない操縦者を、コントロールするのに有効な手段が、習慣だ。
意識的な制御が難しい心だからこそ、無意識でコントロールする。その為には、意識せずに身体が反応する。いわゆる条件反射、パブロフの犬レペル、本能的に近いムーヴを生み出す。
その一連の反復作業、積み重ねる『努力』を、人は習慣と呼び、多くは意識下に捕捉した場合に限って、『習慣化』した、できた、してしまった、やらかした…等の一定の認識をするのだが、自分でも気付かない無意識のうちに、『習慣化』された習慣もあるもので、そちらの方がむしろ、「操つられている」と呼ぶに相応しい状態なのかもしれない。
習慣を制するものは人生を制する
そういった意味では、難攻不落の心と身体の制御室に侵入可能なエージェントとも言える『習慣化』。人間は習慣によって創られるとも言える。何せこの身体の一挙手一投足を牛耳る心のコントロールさえ凌駕するパワーがある。人間を創るとは、大袈裟かもしれないが、その人生をも司ると言っていいのではあるまいか。
しかしながら、そこまでの敬意をもって習慣と向き合う人も多くはない。
大概は気付いた時には既に手遅れ状態、その習慣の奴隷となった姿で発見されるような場面の方が、実際は多かったりもする。
Routine labo
習慣にする。無意識で反応する。『習慣化』はつまり、目的を意識して反復し繰り返し積み重ねる。要するに飽くなき『努力』によって、なし得る賜物ではある。…ある。が、しかし、『努力』とは、しんどい、面倒くさい、嫌な、ものでもある。それがデフォルト。
故に、奴隷化する習慣は、一般的に悪習慣と忌み嫌われることが多いのは、『努力』要素が極端に少なくてよい、むしろ本能をダイレクトに揺さぶって支配下に取り込んでしまうから、身体に異常をきたすような事態に至ってしまうからだろう。
逆に、目的をはっきりと意識して取り組む『努力』は容易ではない。
そこで必要になるテクニックが、『工夫』である。有意識に『努力』を『努力』と意識させない、無意識で『努力』できる『工夫』。
常々、僕はライフワークの一環として、この『工夫』の研究をしてみようと思っている。
偉そうに御託を並べたが、怠け者の戯れ言でしかない。『努力』しないで『努力』できる。『努力』を日常に取り込む『工夫』。生活の端々にあるそういうものに着目し、自分の人生に於いて生体実験を施し検証する。失敗と挫折の連続ではあるが、その『努力』を楽しんで、『努力』せずに『努力』しているので、これを『工夫』と呼んでもよいのではなかろうか。
僕はこのライフワークを『ルーチンラボ』と名付け、研究者気分を堪能して遊んでいる。
そんな研究成果も、いずれ記事に認めたいと思っていたりするのである。