「人に親切にする」習慣
釈迦は「飢饉のときほど托鉢せよ」と弟子たちにといています。
飢饉で作物がとれず、農民たちは飢えています。
そうした貧しい農業を一軒ずつ歩き回って報酬米をもt目てこい、と教えているのです。
釈迦たちは、なぜそんなに貧しい者のところへ托鉢へ行くのでしょうか?
それは「与えれば与えられる」という自然の法則を知らしめたるためだ、と言い伝えられています。自分だけがケチケチと貯め込んで富を築こうという考えを、改めさせようとしているのです。
キリストは、「人に与えよ、そうすれば自分も与えられる」とといています。
釈迦もキリストも、全く同じことを私たちに教えているのです。
「一粒万倍」という格言があります。
たった一粒ん女種が千倍万倍に増える、という意味です。しかし、種を撒かなければ何の変化もおこりません。
人に「親切の種」を撒けば、自分には「親切」が返ってくる。
人を信用すれば、自分も信用される。人を痛めつければ¥自分も痛めつけられ、闘争はさらにひどくなる・・・。
自分で蒔いた種はみんなの万倍になって返ってくる。これが釈迦やキリストの教訓だと思います。
他人から奪うことばかりを考えている人がいます。そういう人は他人を踏み台にして一時的に大金を得ています。
あるいは、そこそこの地位についています。でも、それは一過性です。決して、長続きはしません。
あなたの周囲を見渡していただきたいのです。そのような実例にはことを欠かないはずです。
自分だけの利益を考えている人は、必ずどこかで挫折しています。それが「自然の法則」だからです。
「正直者がバカをみる」という言葉があります。たしかに、そういう場面が少なくありません。コツコツと真面目に生きている善人よりも、悪賢い人間の方が金持ちだったりしています。
「あんなに悪いことばかりしている人間がたくさん儲けて、いい暮らしをしている。それと比べると、正直者はちっとも儲からない」という現実です。
善人をさしおいて、悪人のほうが栄えるものなのでしょうか。そうとは思いません。
世間の目は厳しく光っています。今日まで人間の歴史は、最終的には「善」が勝利しています。
だから、人類はここまで進歩発展してきたのです。
「千悪万悪」も「一善」には勝てることはできないはずです。
もう一度いいます、それが「自然の法則」だからです。