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憧れを離れてー2024年振り返り

九州一周ツーリング

観光研究でしきりに使われる言葉に「真正性(authenticity)」がある。旅先で経験する食や文化、風景が「本当に」その場所ならではのものなのか、その息づかいが感じられるかといった、観光地を訪れるうえで考える真実みのことを指す。

(例)吉田神社 節分祭

11月初旬、私は九州一周ツーリングという少々過酷な一人旅を経験した。総移動距離およそ1,500kmの道のりを、きちんと観光という目的も果たしながら回ったのだが、その大半の時間を高速道路で必死にバイクにしがみついて過ごした。バイクの楽しみ方にも色々あるが、私の場合山道を軽快に走り抜けたり、海沿いをとことこ走ることが好きなのであって、無機質な高速道路でただ強風に抗いながら走る行為は罰ゲーム同然であった。

にも関わらず、終わってみればこの旅もまた、大切な経験として思い出される。船で出会ったバイク乗りや居酒屋の店主、久しぶりに会った友人などとの会話の一つ一つが、確かに私は九州を経験したんだという実感を与えてくれる。それは彼らが色んな思いを抱えながらも自分にできる今を精一杯生きているという、「真正なる生き方」に触れたからなのだと思う。

恩師の訃報

今年の個人的トピックとして欠かせないのは、恩師の訃報である。その方は学生時代大変お世話になった人で、いつか彼のような大人になりたいという、まさに憧れの生き方を体現した人だった。7月、三回忌に合わせて仏壇に手を合わせるために福島を訪れた。

この件について詳細は記述しないが、極めて円滑に目的は達成された。ご家族のご厚意で送迎までしていただいて、数珠に手を通して合掌した後、ぽつぽつと思い出話を聴いた。もう少しこみ上げるものがあるかと思っていたので、無愛想だと思われていないか心配しながら会話した。

訃報を耳にしたのは昨年で、恩師を知る友人と、久々の再開を果たした日の昼食時だった。昔ながらのカウンター席のみのお好み焼き屋で、近況報告で盛り上がっていた中でふいに出たのがその話題だった。それを聞いてからしばらくは、涙が止まらなくなってしまった。全く恩返しができなかった後悔と自分のふがいなさで頭が一杯になった。偶然にもその日食べていたのは恩師から教えてもらったネギ焼きだった。

社会人生活

学生時代の私の行動指針は憧れに近づくことであった。それまでの人生で見てきた大人像とは違う、生き生きとしたかっこいい大人達の姿を見て、あんな風になりたいと思った。社会人になってからは、こんなはずじゃなかったという経験をたくさんした。かっこいい大人は周囲から姿を消し、当時の上司からは不甲斐ない仕事ぶりから人格否定も度々された。

幸いにも今年に入り、部署が変わって以降は環境は改善した。労働が日常化し、一週間が本当にあっという間に感じる日々が続いた。気づけば憧れは行動指針ではなくなり、距離の遠いものになっていた。

目指していたもの

学生時代の気持ちが失われて寂しい反面、気づいたこともある。今の私は誰に憧れたからでもなく、サラリーマンらしく休日はゴルフの練習をしている。継続が苦手だったが、今年は淡々と色んなことが継続できている。こういう日常を送ることは、九州で見た「真正なる生き方」をする人そのものであろう。延いてはこれまで憧れてきた人たちの生活も、この日常を過ごすことに始まっているのではないか。

憧れを失い、行動指針を失った。そんな中で何となく日常を過ごした結果、皮肉にもかつて憧れていた生き方に近づいた。前の上司の完膚なきまでの叱責は、憧れに目を奪われて地に足の付かない状態だった私を変えるための行動だったのかもしれない。

憧れに祈りを

憧れの存在というのは、目指すべきものではなく祈るものだと今では思う。それは、もはや憧れの対象に会えなくなってしまったからではない。憧れの存在はあくまで憧れであり、自分とは違う他人だからである。それは生き方の参考や手本にはなれど、同じようになろうとすると不都合が生じてしまう。私たちは生まれも育ちも全く違っていて、おそらく私自身は憧れの存在達とは比べものにならないくらい幼稚で未熟なのである。

だからと言って、憧れを捨てる必要はない。いつかこんな風になれたら良いな、と心に留めて、手を合わせる。それだけで十分なのである。そうしたら後は、自らの足で進んでいけば良い。来年はもう少しだけ、早足で歩けたら良いなと思っている。

追記:観光地の真正性をめぐって

以前私は、観光地化することによって文化が失われることに否定的だった。白川郷でのnoteを書く時も、否定的なことを入れるかどうかで相当悩んだ。しかし今は、ある程度観光地化を肯定的に捉えている。そもそも、伝統文化がそのままの形で残っていることなんて、現代においてはほとんどないだろう。放っておいたら消えてしまうから、どうにかこうにか保存する術を考えた。そうして仕方なく行った選択の一つが観光地化である。

そこにあるものはもはや真正なる文化ではないのかもしれない。しかし、そういう過程を経て目の当たりにする「文化」は、現代においては別の角度からの真正性を持っているとは捉えられないだろうか。真正性を犠牲にしてでも自分たちの文化を守るという選択をした人がいる。その人たちの思いがある限り、その文化の真正性はなくならないのではないかと、今は思うのである。

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