風土への偏愛:風土学①
「地域のために頑張ってくださいね」。
この有り難い言葉を、私は素直に受け取れたことがない。地域のためと唄いながら、実際には自分が好きでやっていることがほとんどだからだ。かと言って地域のためにならないことをしている訳ではない。なぜこんなことに引っかからないといけないのだろうか。
私たちは誰のために活動しているのか。このもやもやは、大げさかもしれないけどこんな問いにつながると思う。別に気にする必要もないと思い曖昧なままにしてきたこの問いだけど、最近自分なりの結論が見えてきた気がしている。
きっかけは、風土学に触れたこと。普段何気なく耳にする「風土」という言葉、ここに人間存在を見出す哲学・地理学の一分野、風土学。今回はそれを解説...できたら良かったのだが、そのためには哲学の本をたくさん読まないといけなくなるため、難しい。しかし、ここ最近私が体験してきたことと照らし合わせれば、そのエッセンスだけでも表現できるのではないか。それが、本記事執筆の動機である。新社会人になって半年、投稿が止まっていた近況報告も兼ねて書いてみたい。
通勤電車の車窓
私は4月から、地元広島県の一般企業で働いている。市内(ここでは広島市全体を市内と呼ぶ)に住み、そこから30分電車に揺られて東広島市の職場に向かう。車窓が好きで一番前の車輌に乗ることが多いのだが、その中でも大好きな区間がある。瀬野-八本松駅間の景色だ。広島と東広島の中心部のちょうど間に位置しており、最も田舎な区間。毎日表情が違う山や田んぼ、なによりレンガ造りのトンネルが良い。
(写真)
後日撮影予定
考えてみると、私の好きなものに共通しているのが、自然のそばにあって、長く生活の一部として使われ続けていることのように思う。以前書いた白川郷の記事でもそのことを強調していたし、神社が好きな理由もそこにある。
「風土」の定義
「自然のそばにあって、長く生活の一部として使われ続けている」。これは、風土という言葉をうまく言い表していると思う。ちゃんと説明したものを引用してみる。木岡(2018)による説明はこうだ。「「風土」は、〈人間化された自然〉である。この考えは、人間と独立に存在する「環境」の概念、人間という存在をカッコに入れた「生態系」の概念が、いずれも成立する以前の〈人間-自然〉関係に立ち上る。この点からすると、「風土」は、「環境」とも「生態系」とも異なる別の概念である。」p.23
風土とは環境でも人工物でもあり、どちらでもない。そう言われると気持ち悪い感覚があるけれど、木岡(2018)はそれこそ近代的な人間の二元論的な立場だと考える。そして「生態系」という一元論の立場とも異なるとして、大乗仏教の論理、「不一不異」を持ち出す。「「同一でもなく別異でもない」(中略)、これを現実の人間関係に当てはめると、「あなたと私は一体じゃない、けれど別々の存在でもない」ということになる」pp.49-50。
さて、仏教用語まで登場してさらにややこしくなってきた。そもそも近代的な人間である私たちが、すんなり理解できる概念ではないのかもしれない。でも面白そう!と思った方は、度々引用している木岡伸夫『〈出会い〉の風土学』幻冬舎(2018)をおすすめする。
理論的なことは良いよ、という方に、風土とは何かを一番直感的に説明している動画がある。風土学の第一人者、オギュスタン・ベルクが下町を案内された時の会話の一節だ(12:50~)。
「夕焼けだんだん。私があそこの景色が好きで、夕日を眺めながら子ども時代立っていたところですから。で、夕焼けだんだんって名前をつけたり。」
「地名とはやはり風(ふう)ですね。土(ど)があって、ある風に呼ぶ。風土そのものですよ。」
「風土」の消滅危機
私が好きなものの多くは、消滅の危機に瀕している。次回の記事では、ビジネスで風土を守ろうとする企業を紹介する。そこから風土について更に深掘っていく。
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