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株式会社の風土化:風土学②

農業ベンチャーを現地調査

先日、とある企業(A社と呼ぶ)をフィールドワークさせていただいた。ホームページを見てみると、農業を通じた地域課題の解決を掲げ、農産物の生産、企画、販売支援、コンサルティングを行っているとあった。特に職人の経験と勘を、データ分析により「見える化」する、という趣旨の内容が目を引いた。

訪問前にこれを読んでいて、心配なことが1つあった。それは、この取り組みは大切なものを破壊するのではないか、ということだ。その土地の歴史を考慮しない在り方だったらどうしよう。頭の片隅でそう思いつつ、その会社のある集落に向かった。

結論から言うと、その心配は外れた。それどころか、想像以上に地域に入り込んでいた。個人的に面白かったエピソードをいくつか紹介する。

1. 掴んだチャンスを共有

小さな集落だが、すぐそばを高速道路が走っており、高速バスのバス停がある。コロナ禍でバスの利用が減る中、A社は空いたトランクを有効活用できないかと申し出た。バス会社からすれば新たな収入源、A社からすれば都市部に低コストで運ぶことで新たな顧客にも販売ができる。

ただし、ここで終わりではなかった。さらにA社は、近くの酪農家さんにも声をかけた。彼らの作るチーズを、一緒にバスで都市部に売り出しませんかと。それらの取り組みは今、実現に向け進んでいる。

2. A社を通して行われる情報交換

A社の作る農産物はノウハウが確立されていないため、地域の人の経験が頼りである。その中で、ずっとバチバチしている農家があった。お互いをライバル視していて、育て方の情報交換なんかはいっさいしていなかった。そこにA社が入ってきて、両方からアドバイスを受けた。ある日、片方の方から教わった道具を使っていると、もう片方の農家さんが来て、それなんだ?と聞く。○○さんから教わって、とても効率が良いと伝えると、その方も使うようになったそうだ。A社は地域内の情報交換としての役割も果たしている。

3. お祭りの当番になる

フィールドワーク後に、地域のお祭りにたまたま参加させていただいた。神輿を担いで巡り、笛と太鼓とともに祝詞を奏上するというシンプルなものだったが、とても貴重な機会だった。初めてきた土地なのに、もうこの地域の一員になれたような感覚すら覚えた。

さてこのお祭り、3年ぶりの開催だった訳だが、昨年開催されていればなんとA社の社長が当番だったとか。会社設立が2020年、ここまで地域に入り込んでやっているのか、と驚いた。

利潤の最大化を目指すのが株式会社の目的だとすれば、この会社には敢えて効率化していない部分がたくさんある。この状況は外から見るだけでは想像できなかった。

通態性―trajectivity

この状況を、風土学的に解釈してみる。風土の性質を説明する言葉に、通態性という概念がある。まずはこの言葉を説明しなければならない。

①で述べたように、風土とは環境でも人工物でもない(そしてどちらでもある)、あいだの概念である。このあいだについて、ベルクは通態性という新しい解釈をした。

またしてもこの動画。16:25からの部分が、風土、並びに通態性について最も分かりやすくした説明だと思う。

風土は、自然環境と、そこに主体的に働きかける人間によって作られます。人間は、生活のため、自然環境の一部を利用します。自然環境は、人間に把握されることで、環世界、つまり風土になるのです。人間は風土に働きかけ、変化を及ぼします。変化した風土は周り全てに影響を与えます。この時周りすべての影響も変化した風土に影響を与えます。変化した風土からすべてへの影響を環境の主体化、そしてその逆を主体の環境化と、環世界学では定義します。この互いに影響しあう関係を通態性と呼びます。環世界とは、この通態性によって常に変化している世界なのです。
注:環世界とは、人間の言う風土を全ての生物に拡張した世界の見方である。そのため環世界学を風土学と読み替えていただいて問題ない。

この文は(ベルクの)風土学のすべて、だというくらいいろいろと詰め込まれている。風土とは環境と人間の相互作用である。そしてお互いがお互いに影響を与え合うことによって常に変化していく。ベルクはそれを通態性、通態化(trajectivity, trajective)と名づけた。

企業の環境化、風土化

A社の地域への浸透具合は、主体の環境化に他ならない。しかしホームページに載っているスタート時の態度としては、環境の主体化の要素が色濃い。主体の環境化によって反対が失われたかと言うとそうではないし、事業の発展に伴いむしろ加速している。まさに主体と環境の相互作用が、循環的に起こっている。企業(主体)の環境化が起こり、その循環からやがて企業が通態的な在り方へと変化していく。A社の在り方は、企業と地域コミュニティのあいだにあるのだと思う。

地域のためでないならば

これまで、風土学について個人的な体験からの説明を試みてきた。パート③では、風土との関わりについて考える予定だった。しかし、未来のことを風土学③として書くには、個人的な内容すぎて不適切かと思ったため、またの機会に譲りたい。

冒頭に、活動は誰のためか、という問いを立てた。最後に自分なりの考えをまとめたい。

風土とは、自然と人の間にあるものである。通態化という言葉は、それらの相互関係に付けられた名前、概念だ。風土学を学んでいく中で、通態化の考え方は、自然と人とに限られないと考えるようになった。例えば「通態」の生みの親ベルクは、フランスと日本を行き来することで通態的な関係を築いていた。彼は、日本のため、あるいは学問のためにそれを行っただろうか。きっとそれだけではないだろう。彼自身の関心を追い求め、あるいは一種の自己表現としての側面も、どこかにはあったはずだ。

誰のための活動か、という問いは、一言で言い表せるようなことではないし、答えられる必要もきっとない。

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