Perfect Night
金曜日の深夜にて
K-POPのガールズグループ「LE SSERAFIM」の新曲「Perfect Night」。その日は同期の影響でどハマりしたこの曲を流しながら、もう一人の同期と3人でただただぼーっと過ごしていた。その時私は、この時間を過ごすために今までの人生はあったんだと感じた。そしてこんな時間が永遠に続いていくのだと思った。そんなはずないのは当然なのだが、その瞬間だけは真面目にそう感じたのである。
ずっと分からなかったこと
話は変わるが、社会人になってからずっと分からなかったことがある。というか分からないことばかりだった。なぜこの人達はこんなにも真剣に働いているのか。とても楽しそうには見えないのに、どうしてそんなに頑張れるのか。
今の住宅ローンの仕事でも同じだ。どうして数千万の借金というリスクを負ってまで、皆家を建てるのだろうか。もちろん経済的なメリットがあるのは分かる。家がある生活の魅力も十分に理解できるし、なにより私も実家の家がなくなったら悲しい。でも、40年前後もローンに縛られるようなデメリットは、転職など変化の大きい現在においてはメリット以上に大きいと感じる。それは単に私が若いからなのだろうか。
消費社会のウラに
最近、逆説的に分からなかったことが理解できるようになってきた。きっかけは、良くある「脱資本主義」的な思想に触れたことである。「お金は、仲間と時間とコミュニケーションを代替するもの」¹。「(お金には)そこにあるはずのたくさんの奥行のある繋がりを見えなくしてしまうという副作用がある」²。最近読んだ文章に共通してこのような貨幣を批判するフレーズがあった。これを読んだ時に、強い共感と同時に、わずかな違和感を覚えた。
この違和感はなんだろうと考えていた時に思い出したのは、私が最初に投稿したnoteの一節である。
お金は確かに人のつながりだったり、コミュニケーションを代替する。でも反対に、何にお金を使うかを観察することよってその人が目指したい理想の姿が読み取れるのではないか。そういう意見である。
そして、その理想の姿には共通して、つながりという要素があると思う。家を買うことは言うまでもなく、家族とのつながりで満たされた未来を思い描いてのことである。家だけではない。例えば私は学生時代にカメラを買ったが、SNSで写真を共有したり、旅先で撮影した写真を通したコミュニケーションが想像できなければ買ってなかっただろう。何かを買うという行為にはつながりたい人の心理が隠れているし、それこそが実は買い物の本当の目的なのではないか。
つまり、お金はコミュニケーションを代替する、けれども実際には完全な代替は望まず、消費から生まれるコミュニケーションを期待している、という構造がある。
そしてこの意見には「みんな腹の底ではさみしい」という前提がある。その前提から解釈するならば、サラリーマンの心理も分かるような気がしてくる。成果を出して会社に必要とされること。この承認欲求の充足は、数千万のローンを組んでまで得ようとしているものと同じ方向性の価値がある。どうせ働かなくてはならないのであれば、ついでにその欲求も満たせば一石二鳥、三鳥くらいお得である。分からなかった超人的サラリーマンの心理が、一部理解できたと感じた。
完璧な夜を
後から知ったのだが、冒頭の「Perfect Night」のサビの歌詞はこんな意味だそうだ。
あの金曜日の深夜は、つながりたい心理が充足された「完璧な夜」だった。それはこれからも、いつまでも私の理想となって胸の奥に在り続けるのだろう。
注釈・脚注
※1・・・この文章は過去に作成したものである。
※2・・・最近の読書量の少なさ故に、友人からもらった本くらいしかネタがないので、申し訳ないながら出汁にさせてもらった。あれは文章の一部分を恣意的に切り取ったものであると理解して欲しい。素敵な本なので紹介がてら以下に脚注を付けている。
¹:『みんなでつくる中国山地2023 NO004住まう号 さて、どう住む?』p.91より引用。この雑誌は中国地方山間部の地方創生の最先端を追う年刊誌で、刺激的な取り組みの数々と学者先生方の理論的な話が楽しく読める。写真も魅力。
²:『seeds of awareness』p.7より引用。検索してもたぶん出てこない。なぜならこれは友人がアメリカを旅した際の記録を冊子にまとめたものだからである。タイトルの通り気づきの種に満ちたこの冊子もまた深夜に時間を過ごしていた時にもらった。
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