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【10限目】生と死の描写で感性を磨こう!(『桜の樹の下には』/梶井基次郎)

まえがき

第2回のnoteで、「好きな本は?」と聞かれた時の最適解として、梶井基次郎の小説『檸檬』を答えればいいと書いた。今回は、その梶井基次郎の別の作品『桜の樹の下には』を取り上げたいと思う。

この作品は、生と死を、梶井基次郎ならではの構図で切り取ったものだと思っており、個人的には、夭折の梶井の生死の捉え方が現れた作品だと見ている。

『檸檬』もそうであったが、こちらも青空文庫で無料で公開されており、わずか2ページの作品で隙間時間に読むこともできるので、是非読んでみていただきたい。以降、ネタバレを含むので、先に作品を読みたい方は一時離脱をお願いする。

それでは、梶井の胸を借り、感性を磨いて、周りと差をつけていこう。

桜の樹の下には

あらすじ

本作品のあらすじは、すべてこの衝撃的な書き出しに凝縮されている。

桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!

『檸檬』(新潮文庫)156頁

この書き出しで一気に読者の心を引き付けた後、主人公が読者に語り掛ける形で、満開の桜が美しい理由は、その樹の下に屍体が埋まっているからだと説いていくというのが、この作品の大方のあらすじである。冒頭、主人公は、桜の美しさが信じられず、この2、3日間は不安であったと述べるが、その理由(=樹の下に屍体が埋まっている)を突き止めたことで、最後に桜を見て楽しむことができるようになる。

生と死の対比

この作品の主題は、命の美しさと死の恐ろしさという、一般的な対立的な構図(そこでは生と死が両極に対置されている)とは異なり、生の持つ美しさのすぐ背後にグロテスクな死が潜んでいる(=生と死の隣接)という、新たな生と死の関係を提示するということだと理解している。是非、この小説を誰かに紹介するときは、「本作は、新たな生死の構図を扱った作品だよね」なんて言ってみてほしい

冒頭、主人公は、家への帰り道で、なぜか剃刀の刃が頭に浮かんでくると語っているが、これも、美しい桜によって引き起こされた心の動揺と、血生臭い惨劇や恐怖に満ちた出来事を想起させる剃刀の刃が、非常に近しいものであることを読者に匂わせているのであろう。

どうして俺が毎晩家へ帰って来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、選りに選ってちっぽけな薄っぺらいもの、安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のように思い浮かんでくるのか

『檸檬』(新潮文庫)156頁

そして、美しい桜を見て、その樹の下に屍体が埋まっていると考えるようになった契機として、渓(たに)でウスバカゲロウの大量の死体を目撃したことが述べられる。ウスバカゲロウは儚い命の象徴として描かれることが多い生き物であるが、主人公は、ウスバカゲロウをギリシャ神話の美の女神であるアフロディテになぞらえて、その美しさと死との距離感の近さを感じ取るのである。現実の世界で応用するのであれば、(一瞬の生に美しさを見出す言説は決して珍しいものではないが)カゲロウはもちろんのこと、桜や蝉といった刹那性を象徴するものを、ギリシャ神話のアフロディテになぞらえて表現するといったことはできよう。

薄羽かげろうがアフロディットのように生れて来て、渓の空めがけて舞い上ってゆくのが見えた

『檸檬』(新潮文庫)158頁

そして主人公は、ただ美しいもの、ただ穏やかなものだけでは不十分で、惨劇や憂鬱といったものがあって初めて心のバランスがとれると述べる。心の中で、主人公のいう平衡を保つためには、美しい満開の桜の樹の下には死体が必要という理論である。何か不都合なこと、ネガティブな感情を伴う出来事に遭遇したときには、こうした要素を含めて我々の心は平衡を保っているといった使い方が考えられる

俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心証は明確になって来る

『檸檬』(新潮文庫)159頁

最後に、本作品は、主人公が「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」と結論づけた後、以下のような締めくくりで終わる。

今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする

『檸檬』(新潮文庫)158頁

これをどう解釈するかというのは、非常に大きな問題ではあるのだが、自分としては、何も考えずにただただ桜の美しさを褒めながら酒を飲んでいる一般の大衆たちも、実はこの残酷な真実を乗り越えて楽しんでおり、ある種芸術家や論評者としての素養を兼ね備えているというもの。他方で、一般大衆を、主人公と異なり、何も考えずにただただ美しさだけを見てとる者として描き、主人公のように特異な視点から桜を鑑賞することができるようになったとしても、その先の現れ(=桜の樹の下で酒を飲む)は結局同じといった、皮肉的な見方もできるのではないかと思っている。

グロテスクな表現

美の表現が優れている小説は多いが、本作品は、醜の表現が恐ろしいほどにグロテスクである。これは醜を際立たせることで、その横にある美をうまく表現する技法であると考えられるが、以下のような表現が出てくる。日常生活で援用できる場面は限られていると思うが紹介しておく。

桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている

『檸檬』(新潮文庫)158頁

また、桜の樹の下には死体が埋まっていると語る最後には、以下のように読者に語りかける。

お前は腋の下を拭いているね。冷や汗が出るのか。それは俺も同じことだ。何もそれを不愉快がることはない。べたべたとまるで精液のようだと思ってごらん。

『檸檬』(新潮文庫)159頁

はかない命の象徴としての桜

なお、本作品は、短い花盛りの季節から象徴される桜の刹那性に焦点を当てたものであると考えられるが、全ての桜が「儚いもの」であるかというと、必ずしもそうではないらしい。本論からはそれてしまうが、会社で花見に行ったり、校庭に桜が咲いていたりして、同僚や同級生と桜を見る機会はあると思うので、周りと差をつけるポイントとして触れておく。今後取り上げようと思っているのだが、『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか』(稲垣栄洋)によれば、一斉に咲いて、一斉に散るソメイヨシノが生み出されたことで、美しい散り際を表すものとして桜が認識されるようになったということである。

ソメイヨシノは、接ぎ木によって増やされているので、増やした苗木は、もとの木と同じ性質を持つクローンである。
 さまざまな木が植えられたヤマザクラは、木によって花の咲く時期が異なるので、花の時期が長い。ところが、ソメイヨシノは元の一本の株から増やしたすべての木が同じ特徴を持つので、一斉に咲いて、一斉に散ることになる。そのため、ソメイヨシノはより散り際が美しくなる

稲垣 栄洋 『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか』 (p.147) 東洋経済新報社 Kindle 版

おわりに

今回は、第2回で取り上げた梶井基次郎の『桜の樹の下には』を題材に、生と死のコントラストを鮮やかに描き出したその技術を紹介し、鑑賞方法について考えてみた。千差万別、様々な解釈があると思うので、是非それぞれの読み方で楽しんでいただき、周りと差をつけていただきたい。

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