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【8限目】お笑い芸人の感性で差をつける!(『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』/若林正恭)
まえおき
前回は、エッセイとは何かについて触れた後、お笑い芸人の南海キャンディーズ・山里亮太氏のエッセイ『天才はあきらめた』を少しだけ取り上げたが、今回も同じくお笑い芸人のオードリー・若林正恭氏の『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』を取り上げて、周りと差をつける方法を考えていきたい。
こちらもエッセイの形式となっており、前回のnoteでエッセイそのものを使って周りと差をつける方法についても考えているので、併せてご参照いただきたい。
それでは、いつも前置きばかりが長くなってしまうので、さっそく本題に入っていこう。
若林正恭氏から学ぶ頭を良く見せる技術
どんなエッセイ?
そもそも『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』は、いくつかのエピソードが組み合わされた短編集のような形をとっている。息苦しい日本を飛び出て、キューバやモンゴルを旅する話に加え、父親との感動のエピソードもある。難解な表現もなく、比較的気軽に読めると思うので、是非手に取ってみていただきたい。
前回も述べたとおり、エッセイの魅力は、筆者から直接発せられる独特の感性や言い回しであると思っているので、今回は、筆者の若林氏から、周りと差をつける感性や視点を学んでいきたい。
その1 飛行機で使える表現
まずは、旅行などで飛行機に乗る際に使える表現。こちら若林氏がキューバに向かう飛行機に乗った場面での記述。
スマホの機内モードをオンにすると、同時に自分とこの国とをつないでいるクラッチが切れた感覚があった
自分と世界のつながりが断たれる表現自体はいろいろあると思うけど、昔の小説ばかり読んでいると当然こういう表現はでてこないわけで、現代社会においては機内モードが一つそれに代わるものなのだろう。これからはお笑い芸人やyoutuberのうちの言語能力が高い人たちが、鋭敏な感覚で新たな表現を生み出していくのかなとも思う。
その2 旅行が好きな理由として使える表現
先ほどの表現も、「機内モードを切って世界とのつながりを断つ感覚が、飛行機が好きな理由なんだよね」、などと使えると思うが、次の表現も旅行が好きな理由を問われた時に使える表現ぶりである。
自分と頭痛の種の距離は、物理的な距離と比例する
若林氏は、悩みをもたらす日本社会から物理的に離れることで、頭痛からも解放されることができると述べ、それを旅行が好きな理由として挙げている。これは旅行が趣味が、その理由を少しかっこよく言いたいときに使えるのではないだろうか。
その3 旅行先での別れの場面で使える表現
ぼくは旅先でほぼ叶えられる可能性が無いであろう「では、また」が好きだ。ぼくは絶対この先ふとした時にこの人のことを思い出すだろうから、その時用の「では、また」なのだ
これは、同じツアーに参加していた観光客に別れを言う場面での一節であるが、お笑い芸人である筆者ならでは面白い視点ではないだろうか。ひねくれた側面もあると言われる若林氏であれば、どうせもう会うこともないのだから不要だと言いそうであるからこそ尚良い。こういう筆者の意外な一面を知ることができるのもエッセイの魅力だと思う。旅行をする者万人が使える表現。
その4 同性と戦うときの表現
同性を動物として勝てるかどうかで見るのは久しぶりだった
こちらは、キューバの空港に着いた後のタクシー下り場で、若林氏が、最悪けんかになったとしても勝てそうなドライバーを選んでいたシーンから。あまり汎用性はないのだが、面白い視点だと思ったので取り上げる。
子どもの頃は、ガキ大将には勝てないとか、拳と拳のけんかが日常にあって、あいつには勝てない、こいつには勝てるみたいな尺度を持っていたように思うが、確かに大人になって「動物として」勝てるかどうかは見なくなったと思う。タクシーでのトラブルは旅行先でのトラブルランキング最上位だと思うので、実際には緊張した状況でドライバーを精査していたと思うのだが、お笑い芸人ならではのユーモアで、その緊張感をあまり感じさせない優れた表現だと思う。
他方で、仮に人間を知性を活用して戦う「動物」(ホモ・サピエンス)や遊びを楽しむ「動物」(ホモ・ルーデンス)であると定義するのであれば、社会人になってもこいつより仕事ができるとか、こいつよりリア充だとかというのは「動物として」勝てるかどうかで見ているのかもしれないなと考えた。
その5 チェ・ゲバラの名言
明日死ぬとしたら、生き方が変わるのですか?あなたの今の生き方はどれくらい生きるつもりの生き方なんですか?
こちらは筆者が引用しているキューバの政治家・革命家チェ・ゲバラの名言。今日を一生懸命生きろ的なこととして理解しておけばよいと思う。
そうした文脈で直接引用することは可能であろうが、他方で、そうした名言は他にもいろいろありそうなので、直接使ってみたとしても深みはあまり出ないかもしれない。なので、「チェ・ゲバラはそういうけど」、といった形で使う方がおすすめか。革命期のキューバと寿命が平均寿命が80歳の日本とでは状況が違うので、後者の世界では遠い先を見た生き方の方が当然に合理的なのである。朝三暮四(※)の寓話も、晩まで生きている保証がない野生のサルの世界では合理的との考えもある。
※ 目先の違いにとらわれて、同じ結果であることを理解しないことをいう故 事成語。中国の狙公という人物が飼っていた猿に、木の実を「朝に3つ晩に4つ」与えると言ったら猿は怒ったが、「朝に4つ晩に3つ」にすると言ったら喜んだという故事に由来。
その6 家族との愛を言うときの表現
例えば人生とか、愛とか、感謝とかって実はアメフトの話のようなものの中に含まれていて、わざわざ言葉にして話すようなことじゃない
若林氏が、肺に影が見つかった父親を温泉旅行に連れて行った場面での一節。とことん父親と語り合うつもりであったが、照れて上手く話せず、温泉ではいつものような他愛のない会話しかできなかった。
特別じゃない会話の中に家族の愛を見出す若林氏の視点が活きている。
その7 自らを省みて悩んでいるときの表現
生き易い人は内面をそこまで覗き込む必要がない。スムーズな走行をしている車のボンネットを開ける必要はないからだ
ツッコミ芸人ならではの抜群の喩え。いろんなことが上手くいっているときは自分ことなど省みない(省みる余裕もない)。是非人生に悩んでいる人や、自分を責めている人がいたら、この言葉をかけて、「メンテナンスをしない車がないように、人生のどこかでボンネットを開けてメンテナンスを必要とする瞬間は必ず来るものであり、今がその瞬間なだけ」と伝えてほしい。
おわりに
前回と合わせての2回で、堅苦しい話だけではなく、お笑い芸人のことにも一定詳しいという、人としての「幅」を見せることに成功したことと思う。次回は、子ども向けの題材からでも、周りと差をつけることができるということについて考えてみたい。次回もエッセイを取り上げようと思うので、今しばらくお付き合いいただきたい。