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【9限目】アンパンマンから学ぶ、周りと差をつける方法(『ボクと、正義と、アンパンマンと』/やなせたかし)


まえがき

前々回、前回とお笑い芸人のエッセイを取り上げてきた。前回から少し期間が空いてしまって申し訳ないが、今回は、アンパンマンの作者として著名な、やなせたかし氏のエッセイを取り上げて、周りと差をつける方法を考えていきたい。

アンパンマンのストーリー

アンパンマンは、多くの人が子どもの頃から慣れ親しんできたキャラクターではあるものの、そのコンセプトや生み出された背景を知っている人は少ないのではないかと思う。このエッセイを読めば、どんな思いで、やなせ氏が、アンパンマンと、そして読者である子どもたちと向き合っていたのかがよく分かる。既にアンパンマンを読まない年齢になってしまった方であっても、自らや親戚の子どもに絵本を読んだり、アニメを見せたりする機会があると思うので、多くの大人にぜひ読んでいただきたいエッセイである。

アンパンマンは、やなせ氏が手掛けた最初の作品ではなく、むしろ晩年に生み出されたものであるため、やなせ氏の、漫画家や放送作家などの様々な経験が凝縮されている。そこには、子どもたちの精神にとってよいものを提供したいという強い信念が込められているのである。精神を害することは、物理的な害に比べて意識することが難しく、その結果、子どもにとって有害なものが世に流通してしまう。自らを教育者ではないといいながらも、ある種の製造物責任として、自らがよいと思えるものを子どもたちに提供したいという思いである。

物理的な公害よりも精神的な公害のほうが実はもっと危険なのです

『ボクと、正義と、アンパンマンと』(PHP研究所)32頁

食品の汚染については割合とチェックされるようになったが、精神的な汚染ということになるとほとんどチェックしません

『ボクと、正義と、アンパンマンと』(PHP研究所)139頁

教育者ではありませんが、それを読む子どもたちの心に影響を与えていくとすれば自分の作品群に対しては責任があります

『ボクと、正義と、アンパンマンと』(PHP研究所)20頁

その前提の下、やなせ氏は、アンパンから生まれたアンパンマンと食品の敵であるバイキンマンとのたたかいをテーマに設定した。これは、絶対的な善とか、100%の悪といった描き方をするのではなく、むしろ、子どもたちがこれから生きていがなければならない現実の世界に即して、善と悪の共存を入れ込みたかったと述べている。人間にとっていいものが発酵、悪いものが腐敗といわれるように、バイ菌は食品の敵であるが、同じく菌であるイースト菌の手伝いを得てパンはパンになる。

バイキンは食品の敵です。しかし実はパンを作るのもイースト菌なんです。戦いながらアンパンマンとバイキンマンは共存しています。ボクらの心には善と悪があります。善と悪は戦いながら共存しています。そのことをボクはストーリーの中に入れたかったのです。

『ボクと、正義と、アンパンマンと』(PHP研究所)67頁

善の心が悪の心に打ち勝つことがあって、人は抵抗力を身につけ精神的に鍛えられ、成長する。善悪のバランスがあってこそ抑制力もできてくる。絶えずバランス感覚をもった人間であることは、人として生きていく上で必要です。善の心だけでは純粋すぎるし、精神的な抵抗力も育ちません

『ボクと、正義と、アンパンマンと』(PHP研究所)22頁

アンパンを漠然と見ているとこのような深い考えがあって、物語のテーマが設定されていることまで考えが及ばないものである。是非、子どもとアニメを一緒に見る際にこんな深いテーマ設定が隠れているのだということを伝えるのもよいし、会社の飲み会のネタとして、「アンパンマンの思想を知っているか?」という形で使ってもらってもよいのではないかと思う。子供向けのテーマからも、現実社会の普遍的なテーマを見出すことが、周りと差をつけるポイントである。

ちなみにやなせ氏は、作品の中で、そうした自らの主張を前面に出さない理由を以下のとおり語っている。絵本作家ではない我々の大半にとって直接使えるものではないが、自分の考えを全面に出さない(出せない)場面(学校の作文や会社の会議でも何でもいいと思うが)に遭遇した際には、使ってみることもできるのではないかと思う。

表面的にはまず面白いお話であること、それから絵が美しいこと、これが必要であって作者の主張はその底にかくれているぐらいがいいのです。

『ボクと、正義と、アンパンマンと』(PHP研究所)141頁

こどもとの向き合い方

絵本の読者は主として子どもである。他方で、その絵本を買うかどうかを決めるのは、多くの場合において親であるから、絵本は時折、本来ターゲットである子どもにウケるものではなく、親に阿るという、商業主義に飲み込まれることがあるという。他方で、やなせたかし氏は、読者である子どもたちを一人前の批評家としてリスペクトを持って相対している。

幼児は権威も名声も世界的な地位もひとつとして認めなくて、気にいるか気にいらないかで決める冷酷な読者だから、作者としていちかばちかの勝負になります

『ボクと、正義と、アンパンマンと』(PHP研究所)17頁

子どもは、好きな本だったら何回も何回もあきらめてしまうんじゃないかと思うくらい繰り返して見ます。しかも好き嫌いがはっきりしています。嫌いなものはいくら勧めたって見ません。それはどんな批評家の批評よりも非常に強力だし、しかも純粋です。

『ボクと、正義と、アンパンマンと』(PHP研究所)58頁

だからこそ、子どもではわからないだろうと安易なテーマ設定に逃げるのではなく、大人でも答えをもちあわせていないような深遠な問いをその作中に忍ばせる。子どもを子ども扱いしないことが、アンパンマンが子どもたちに広く受け入れられている理由なのかもしれない

なお、やなせ氏は、ある大学教授の発言を引用して、本来幼年指導者の方が最も給料を高くあるべき(=最も教育の観点から重要)という趣旨をある大学教授の発言を引用し、幼年の子どもたちに影響を与えることの重要性を述べている。

ある大学教授が、幼年指導者の給料が一番高く、資格も学力も人格も一番すぐれた教師がなり、小学・中学。大学とだんだん給料を安くしていくのが本当だと、大学を定年でやめてからいっていましたが、そのとおりです

『ボクと、正義と、アンパンマンと』(PHP研究所)81頁


これについては、確かにそのとおりと思うところもあるが、結局のところ、幼児教育については専門性が低いと考えられている(つまり親でも代替できる)ために、低い給料が設定されているということだろう。確かに教育への投資回収率は、子どもが小さいときの方が大きいという研究を見たことがあるので、社会全体で見た時の資源の配分として、限られたリソースをどこに注ぎ込むかというのは議論の余地があるのだろうと思う。

赤ちゃん雑学

赤ちゃんの似顔絵

ここで突然のクイズ。やなせ氏によれば、赤ちゃんの似顔絵は最大限に難しいらしいのだが、それはなぜだろうか?理由は4つあるらしいが、正解は以下のとおりである。

赤ちゃんの似顔絵というのは最大限に難しいのです。まず、第一に個性がまだ確立していない。第二に線がやわらかすぎる。髪の毛なんか、あるのかないのかわからないぐらいにボヤーッとはえている。第三にモデルがじっとしていられない。泣きわめく。第四に、両親が自分の赤ちゃんは世界一で一番かわいいと思い込んでいる。

『ボクと、正義と、アンパンマンと』(PHP研究所)50頁

個人的には、第4の理由が一番大きいのだろうと思う。是非、同僚や同級生とのちょっとした小ネタとして使っていただければ幸いである。

赤ちゃんは天使

やなせ氏は、赤ちゃんはとにかく天使であり、短い期間であっても、この世で天使を見られるのは幸福だと語っている。

とにかく赤ちゃんは天使です。天使の期間はみじかいのが残念ですが、この世で天使を見られるのは幸福です。

『ボクと、正義と、アンパンマンと』(PHP研究所)51頁

この点、天使にまつわる話として、自分が想起したのは、19世紀のフランス写実主義の画家であるクールベの「私は天使を見たことがないから、天使を描くことはできない」という趣旨の発言である。

クールベは、宗教画や歴史画が全盛の時代にあって、庶民の生活に焦点を当てた現実社会の絵を描いたことで、美術界で物議を醸した人物である。クールベにはひょっとして子どもがいなかったために、天使を見れなかったのではないかと思って、少し調べてみたが、しっかり二人の息子がいるようであった・・・

フランケンシュタインとのつながり

最後に、こちらは完全におまけであるが、やなせ氏は、このエッセイ集の中で、第3回で取り上げた『フランケンシュタイン』についても触れている。

ある日、アンパンに生命が宿って、アンパンマンが生まれるというストーリーには、フランケンシュタイン博士が産みだした怪物の物語が根底にあるという。

これも先ほどの製造物責任の論理と近いのかもしれないが、やなせ氏はアンパンマンをこの世に生み出した者としての責任を果たそうとしているのではないか。それは、フランケンシュタイン博士が、怪物を生み出したと同時に、その良心の呵責に耐えられなくなって部屋を飛び出してしまったことが念頭にあって、やなせ氏の手によって生み出されたアンパンマンも、あの怪物のように、創造主の手を離れて苦悩していると考えているのではないか。ここに、まさにクリエイターとしての矜持が伺い知れるところであり、やなせ氏は、原爆に人格があれば、それを作り(=オッペンハイマー)、落とした人(=トルーマン大統領)の苦悩よりも大きいと想像してみせる。

フランケンシュタイン博士が創造した怪物は、映画とちがってはるかに知的で自分の存在そのものについて反省し苦悩していて、同情を禁じ得ません

『ボクと、正義と、アンパンマンと』(PHP研究所)158頁

原爆に人格があるとすれば、おそらく原爆をつくり、それを落とした人の苦悩よりも、つくられた自分の苦悩の方がはるかに深いと絶叫するでしょう。

『ボクと、正義と、アンパンマンと』(PHP研究所)159頁

おわりに

今回は、やなせたかし氏のエッセイを取り上げ、子ども向けの物語であるアンパンマンを通じて、知識の幅、人間としての厚みを出す方法を考えてみた。とりあえず、エッセイシリーズは今回で一区切りとして次回からは別のものを取り上げることとする。

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