記号として消費される本たち。
消費と浪費の違いについて、面白い記述を見つけた。國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』という本だ。
ときどき僕は、本を大量に読みたい衝動に駆られることがある。そういう時は、簡単に読めそうな本を家中から集めてきて、1日に10冊くらい一気に読んでしまう。それがある程度の快楽をもたらすのだが、満足するわけでもないし、読書の楽しみとはかけ離れている。
大量の本を読むとき、僕は本を消費しているのだと思う。本という物質を記号として捉え直して、本に付与された観念とか意味を消費する。そして残るのは、ほんの少しの達成感と海より深い虚しさだけ。
僕が読書をする理由は、その贅沢な時間を味わうことにある。一冊の本をゆっくりじっくり時間をかけて楽しみつくす。そこには、本に書かれた情報以上の豊かさが存在する。
1日は24時間で、本を読むのには時間がかかる。だからこそ僕たちは、本を読むのを急ごうとしたり、積読を減らそうと躍起になる。
有限な時間で有限な読書を楽しむ。これほど贅沢なことがあるだろうか。勇気を持って一冊と向き合う。そうやって初めて、読書の満足が得られるのだろう。
本を消費するのをやめよう。浪費しよう。僕は高速で動かしていた手を止めて、ゆっくりと1ページだけめくった。