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記号として消費される本たち。

 消費と浪費の違いについて、面白い記述を見つけた。國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』という本だ。

浪費とはなにか? 浪費とは、必要を超えて物を受け取ること、吸収することである。必要のないもの、使い切れないものが浪費の前提である。
 浪費は必要を超えた支出であるから、贅沢の条件である。そして贅沢は豊かな生活に欠かせない。
 浪費は満足をもたらす。理由は簡単だ。物を受け取ること、吸収することには限界があるからである。身体的な限界を超えて食物を食べることはできなし、一度にたくさんの服を着ることもできない。つまり、浪費はどこかで限界に達する。そしてストップする。
(中略)
 しかし消費はそうではない。消費は止まらない。消費には限界がない。消費はけっして満足をもたらさない。
 なぜか?
 消費の対象が物ではないからである。
 人は消費するとき、物を受け取ったり、物を吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。ボードリヤールは、消費とは「観念的な行為」であると言っている。消費されるためには、物は記号にならなければならない。記号にならなければ、物は消費されることができない。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』

 ときどき僕は、本を大量に読みたい衝動に駆られることがある。そういう時は、簡単に読めそうな本を家中から集めてきて、1日に10冊くらい一気に読んでしまう。それがある程度の快楽をもたらすのだが、満足するわけでもないし、読書の楽しみとはかけ離れている。

 大量の本を読むとき、僕は本を消費しているのだと思う。本という物質を記号として捉え直して、本に付与された観念とか意味を消費する。そして残るのは、ほんの少しの達成感と海より深い虚しさだけ。

 僕が読書をする理由は、その贅沢な時間を味わうことにある。一冊の本をゆっくりじっくり時間をかけて楽しみつくす。そこには、本に書かれた情報以上の豊かさが存在する。

 1日は24時間で、本を読むのには時間がかかる。だからこそ僕たちは、本を読むのを急ごうとしたり、積読を減らそうと躍起になる。

 有限な時間で有限な読書を楽しむ。これほど贅沢なことがあるだろうか。勇気を持って一冊と向き合う。そうやって初めて、読書の満足が得られるのだろう。

 本を消費するのをやめよう。浪費しよう。僕は高速で動かしていた手を止めて、ゆっくりと1ページだけめくった。

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